2014年09月16日 (火) | 編集 |
第145回
「曲がり角を曲がった先に何があるのかは分からないの。
でも、それはきっと … きっと、一番良いものに違いないと思うの … 」
< 平和になる時を待っているのではなく、今これが私のすべきことなのだ。
その思いにつき動かされ、翻訳をはじめた花子でした。
空襲の町を逃げながら、花子は祈りました。
生きた証しとしてこの本だけは訳したい … >
* * * * * * * * * *
一夜明け、激しい空襲の中、必死に逃げ延びた花子と美里は、ももと直子と共に大森の町に戻って来た。
くすぶる煙で目の痛みを訴える美里と直子を励ましながら我が家を目指した。
「大丈夫、もう少しだから歩こう」
< 甲府に疎開させていた直子が東京に帰ってきた矢先の空襲でした >
家に着いた花子たちは愕然とした。
焼夷弾によって、工房がすっかり焼け落ちていたのだ。
地面に黒こげになった青凛社の看板がころがっていた。
* * * * * * * * * *
その時、住居から英治と旭が飛び出してきた。
「美里、花子さん!」
それぞれの家族が抱き合い、お互いの無事を喜んだ。
「皆、無事でよかった … 恐ろしかっただろ?」
しかし、かよの安否が分からない。
英治と旭も少し前に何とか辿り着いたばかりだと言った。
働いていた軍需工場が爆撃されて、命からがら逃げてきたのだ。
一同はふたたび、無残な姿になった工房を見つめ、しばし立ち尽くした。
* * * * * * * * * *
不幸中の幸いか、住居の方は何とか火災を免れていた。
しかし、花子の書斎の被害は大きかった。
「お姉やんの大切な部屋がこんなことになるなんて … 」
ももは嘆いたが、他の部屋にまで燃え広がらなかったことがせめてもの救いだった。
それに、花子の大事な本は、雪乃たちが乗り込んできた後に、英治が防空壕に隠しておいたので難を逃れていたのだ。
* * * * * * * * * *
居間の方で人の気配を感じた花子が目をやると、かよが立っていた。
「かよ、無事だったのね」
花子たちは喜び、駆け寄ったが … かよの様子がおかしかった。
「 … お姉やん、私の店、焼けてしまったの」
目にいっぱい涙を溜めていた。
「あの辺は、全部燃えて何にも残ってない」
かよが命を賭けて守ろうとした店だった。
それがよく分かっている花子は涙ぐみ、かよのことを抱きしめた。
* * * * * * * * * *
一方、宮本家の付近は空襲の被害はほとんどなかった。
「配給、またお芋?」
うんざり顔の富士子に蓮子は言った。
「お母様はお芋好きよ … お芋にはね、お父様との思い出があるの」
一緒になった頃、龍一がよく焼き芋を買ってきてくれた話を聞かせたが、今の富士子の心には響かなかったようだ。
「私は何でもいいから、お腹いっぱい食べたい」
「富士子 … 」
「お兄様は、ちゃんと食べていらっしゃるかしら?」
そんな沈みがちな気分のふたりの前に何年かぶりに龍一が姿を現した。
「よかった、無事だったか … 空襲がひどいと聞いて、心配して戻って来た」
「 あなた … おかえりなさい」
「ただいま」
龍一はふたりのことを力強く抱きしめた。
* * * * * * * * * *
「 … そうか、純平は出征したのか」
蓮子から話を聞き、龍一は眉をひそめた。
「はい、この間一度だけ特別休暇で帰って来たんです」
「お父様がいてくださったら、お兄様喜んだでしょうに … 」
しかし、富士子の言葉を龍一は否定した。
「私がいても … あいつを喜ば出るようなことは何ひとつ言ってやれない」
すると、蓮子は自分もそうだったと言った。
「送り出す前の晩、純平に言われてしまいました。
笑顔で送り出してくれって」
その話を聞いて、龍一は目を閉じた。
* * * * * * * * * *
花子がすでに何枚か書き上げていた『Anne of Green Gables』の翻訳原稿のほとんどは肝心な部分が焼け焦げてしまっていた。
「せっかく翻訳した原稿が … 」
英治は肩を落としたが、花子は意外にも平然としていた。
「原稿はまた書きなおせばいいのよ ~ この原書と辞書がある限り、大丈夫。
何十回爆弾を落とされようと、私この翻訳を完成させるわ。
私に出来ることはこれだけだから … 」
そう言いながら、花子はすでに英治の目の前で翻訳作業を再開していた。
その逞しさに、英治は脱帽し、微笑みながら書斎から出て行った。
< 蓮子や醍醐は … 皆は無事だろうか?
花子は祈るような気持ちで翻訳を続けました >
* * * * * * * * * *
「今夜も空襲が来るんじゃないかしら?」
美里が心細そうに言った。
いつ空襲が来てもすぐに逃げられるように、枕元には防空頭巾を置いて、洋服を着たまま布団に入った。
「いつになったら、ゆっくり寝られるのかな?」
家を焼け出されたかよも、襖一枚隔てた部屋に布団を敷いて寝ている。
「どんなに不安で暗い夜でも、必ず朝がやって来る。
アンも言ってるわ … 朝はどんな朝でも美しいって」
花子は『Anne of Green Gables』に書かれてあった一節を引用した。
すると、美里は幼かった頃のように読み聞かせを花子にせがんだ。
「お母様、アンのお話して」
「いいわよ」
* * * * * * * * * *
花子は部屋の灯りを消して、スタンドの灯の下で『Anne of Green Gables』の原書を訳しながら読みはじめた。
「 … 昨夜はまるで、この世界がまるで荒野の様な世界の気がしましたわ。
今朝はこんなに陽が照っていて、本当にうれしいわ。
でも、雨降りの朝も大好きなの … 朝はどんな朝でもよかないこと?
その日にどんなことが起こるか分からないんですもの、想像の余地があるからいいわ」
花子が読む物語を美里だけでなく、英治とかよも耳を傾けていた。
偶然にも、その文章はまるで今の自分たちの境遇を知っていて、励ましているように聞こえたのだ。
* * * * * * * * * *
< 生と死が紙一重の中で花子は翻訳を続けました >
「 … 『名前は何ていうの?』
子供はちょっとためらってから、『私をコーデリアと呼んでくださらない』と熱心に頼んだ。
『それが、あんたの名前なのかい?』
『いいえ、あの、私の名前ってわけじゃないんですけれど、コーデリアと呼ばれたいんです。
素晴らしく優美な名前なんですもの』
『何を言ってるか、さっぱり分からないね。
コーデリアというんでないなら、何という名前なの?』
『 … アン・シャーリー』」
* * * * * * * * * *
「 … アンって私によく似てる」
物語の主人公アン・シャーリーと自分の共通点を見つけるたびに頬を緩ませる花子だった。
いつしか、アンのことがまるで自分の分身のように思えていた。
「てっ … 何を言ってるでえ ~ おらに似てるずら」
突然聞こえたその声に花子は驚いて振り返った。
何とそこには、子供の頃 … ちょうど、秀和女学校に入学した頃の自分にそっくりの少女が立っていた。
「ぐっどいぶに~んぐ、花子」
吉平方式の英語の挨拶を知っているその少女はもしかしたら …
「てっ … あなた、私 … はな?」
「はなじゃねえ、おらのことは花子と呼んでくりょう」
少女は少し怒ったように言った。
間違いない少女は花子自身だ。
「てっ … やっぱり私だ」
呆気にとられている花子に構わず、はなは仕事机に近づくと『Anne of Green Gables』の原書を指さした。
「その本、面白そうじゃんけ?」
「ええ … すごく面白いわよ」
「おらも読みてえ、ちょっこし読ましてくれちゃあ」
好奇心いっぱいのはなに花子は快く『Anne of Green Gables』を手渡した。
* * * * * * * * * *
「てっ … 英語じゃん、全部英語じゃんけ!
花子はこれ全部読めるだけ?」
目をまん丸にしてはなは訊ねた。
「ええ、読めるわ。
あなたが秀和女学校にいる時、こぴっと頑張って英語を勉強してくれたお蔭で、私今翻訳の仕事をしているの」
花子は少し自慢げに答えた。
「 … 村岡花子という名前で」
はなはうれしそうに笑った。
「村岡花子 … おらも頑張ったけんど、花子も頑張ったじゃん!」
「ええ、ありがとうごいす」
花子は自分に褒められて奇妙な気分だったが、何といっても自分のことは自分が一番よく知っているのだ。
「この本、どんな話か教えてくれちゃあ」
「ええ!」
* * * * * * * * * *
「 … 物語の舞台はカナダのプリンスエドワード島。
主人公は赤毛でソバカスだらけの女の子、アン・シャーリー。
産まれて間もなく両親を亡くして、孤児院に預けられたアンはふとした間違いで男の子を欲しがっていたマシューとマリラという兄妹のお家へやって来るの。
マシューは働き者で無口なお祖父さんなんだけど、アンのことがとっても気に入ってしまって、マリラにこう言われるの。
『マシュー、きっとあの子に魔法でもかけられたんだね?
あんたがあの子をこの家に置きたがってるということがちゃんと顔に書いてありますよ』って」
* * * * * * * * * *
『「そうさな ~ あの子は、ほんに面白い子供だよ」って … 』
「て ~ お祖父やんみてえ」
はなはうれしそうだ。
「そうなの ~ マシューは『well,now ...』っていうのが口癖なんだけど、日本語で訳すと、お祖父やんの口癖だったあの言葉がぴったりなの」
そう言いながら、花子は大好きだった周造の顔を思い浮かべていた。
「あなたとアンは似ているところがたくさんあるの。
アンは11歳の時にひとりでプリンスエドワード島にやって来るんだけど … 」
「おらが秀和女学校に入って時みてえに?」
花子は笑顔でうなずいた。
「そう、その日からアンの運命は大きく変わっていくの」
「て ~ アンって本当におらにそっくりじゃん」
はなは目をキラキラと輝かせた。
「本当に私たちにそっくりなの」
* * * * * * * * * *
「花子、このお話はいつ本になるでえ?」
はなは胸をわくわくさせながら訊ねた。
花子は顔を曇らせた。
「 … それは、分からないの。
本に出来るかどうかも分からないわ」
「ほれなのに花子はどうして翻訳なんしてるで?」
はなの疑問はごく当たり前のことだった。
「それはね、私の中にアンが棲みついていて、絶えず私を励ましてくれるから … 先の見えない不安な時でも、アンは決して希望を見失わず、こう言うの。
『曲がり角を曲がった先に何があるのかは分からないの。
でも、それはきっと … きっと、一番良いものに違いないと思うの』って」
「曲がり角の先」
花子とはなは微笑みあった。
窓から射しこむ春の光、緩やかな風がカーテンを揺らしていた。
< … ごきげんよう、さようなら >



「曲がり角を曲がった先に何があるのかは分からないの。
でも、それはきっと … きっと、一番良いものに違いないと思うの … 」
< 平和になる時を待っているのではなく、今これが私のすべきことなのだ。
その思いにつき動かされ、翻訳をはじめた花子でした。
空襲の町を逃げながら、花子は祈りました。
生きた証しとしてこの本だけは訳したい … >
* * * * * * * * * *
一夜明け、激しい空襲の中、必死に逃げ延びた花子と美里は、ももと直子と共に大森の町に戻って来た。
くすぶる煙で目の痛みを訴える美里と直子を励ましながら我が家を目指した。
「大丈夫、もう少しだから歩こう」
< 甲府に疎開させていた直子が東京に帰ってきた矢先の空襲でした >
家に着いた花子たちは愕然とした。
焼夷弾によって、工房がすっかり焼け落ちていたのだ。
地面に黒こげになった青凛社の看板がころがっていた。
* * * * * * * * * *
その時、住居から英治と旭が飛び出してきた。
「美里、花子さん!」
それぞれの家族が抱き合い、お互いの無事を喜んだ。
「皆、無事でよかった … 恐ろしかっただろ?」
しかし、かよの安否が分からない。
英治と旭も少し前に何とか辿り着いたばかりだと言った。
働いていた軍需工場が爆撃されて、命からがら逃げてきたのだ。
一同はふたたび、無残な姿になった工房を見つめ、しばし立ち尽くした。
* * * * * * * * * *
不幸中の幸いか、住居の方は何とか火災を免れていた。
しかし、花子の書斎の被害は大きかった。
「お姉やんの大切な部屋がこんなことになるなんて … 」
ももは嘆いたが、他の部屋にまで燃え広がらなかったことがせめてもの救いだった。
それに、花子の大事な本は、雪乃たちが乗り込んできた後に、英治が防空壕に隠しておいたので難を逃れていたのだ。
* * * * * * * * * *
居間の方で人の気配を感じた花子が目をやると、かよが立っていた。
「かよ、無事だったのね」
花子たちは喜び、駆け寄ったが … かよの様子がおかしかった。
「 … お姉やん、私の店、焼けてしまったの」
目にいっぱい涙を溜めていた。
「あの辺は、全部燃えて何にも残ってない」
かよが命を賭けて守ろうとした店だった。
それがよく分かっている花子は涙ぐみ、かよのことを抱きしめた。
* * * * * * * * * *
一方、宮本家の付近は空襲の被害はほとんどなかった。
「配給、またお芋?」
うんざり顔の富士子に蓮子は言った。
「お母様はお芋好きよ … お芋にはね、お父様との思い出があるの」
一緒になった頃、龍一がよく焼き芋を買ってきてくれた話を聞かせたが、今の富士子の心には響かなかったようだ。
「私は何でもいいから、お腹いっぱい食べたい」
「富士子 … 」
「お兄様は、ちゃんと食べていらっしゃるかしら?」
そんな沈みがちな気分のふたりの前に何年かぶりに龍一が姿を現した。
「よかった、無事だったか … 空襲がひどいと聞いて、心配して戻って来た」
「 あなた … おかえりなさい」
「ただいま」
龍一はふたりのことを力強く抱きしめた。
* * * * * * * * * *
「 … そうか、純平は出征したのか」
蓮子から話を聞き、龍一は眉をひそめた。
「はい、この間一度だけ特別休暇で帰って来たんです」
「お父様がいてくださったら、お兄様喜んだでしょうに … 」
しかし、富士子の言葉を龍一は否定した。
「私がいても … あいつを喜ば出るようなことは何ひとつ言ってやれない」
すると、蓮子は自分もそうだったと言った。
「送り出す前の晩、純平に言われてしまいました。
笑顔で送り出してくれって」
その話を聞いて、龍一は目を閉じた。
* * * * * * * * * *
花子がすでに何枚か書き上げていた『Anne of Green Gables』の翻訳原稿のほとんどは肝心な部分が焼け焦げてしまっていた。
「せっかく翻訳した原稿が … 」
英治は肩を落としたが、花子は意外にも平然としていた。
「原稿はまた書きなおせばいいのよ ~ この原書と辞書がある限り、大丈夫。
何十回爆弾を落とされようと、私この翻訳を完成させるわ。
私に出来ることはこれだけだから … 」
そう言いながら、花子はすでに英治の目の前で翻訳作業を再開していた。
その逞しさに、英治は脱帽し、微笑みながら書斎から出て行った。
< 蓮子や醍醐は … 皆は無事だろうか?
花子は祈るような気持ちで翻訳を続けました >
* * * * * * * * * *
「今夜も空襲が来るんじゃないかしら?」
美里が心細そうに言った。
いつ空襲が来てもすぐに逃げられるように、枕元には防空頭巾を置いて、洋服を着たまま布団に入った。
「いつになったら、ゆっくり寝られるのかな?」
家を焼け出されたかよも、襖一枚隔てた部屋に布団を敷いて寝ている。
「どんなに不安で暗い夜でも、必ず朝がやって来る。
アンも言ってるわ … 朝はどんな朝でも美しいって」
花子は『Anne of Green Gables』に書かれてあった一節を引用した。
すると、美里は幼かった頃のように読み聞かせを花子にせがんだ。
「お母様、アンのお話して」
「いいわよ」
* * * * * * * * * *
花子は部屋の灯りを消して、スタンドの灯の下で『Anne of Green Gables』の原書を訳しながら読みはじめた。
「 … 昨夜はまるで、この世界がまるで荒野の様な世界の気がしましたわ。
今朝はこんなに陽が照っていて、本当にうれしいわ。
でも、雨降りの朝も大好きなの … 朝はどんな朝でもよかないこと?
その日にどんなことが起こるか分からないんですもの、想像の余地があるからいいわ」
花子が読む物語を美里だけでなく、英治とかよも耳を傾けていた。
偶然にも、その文章はまるで今の自分たちの境遇を知っていて、励ましているように聞こえたのだ。
* * * * * * * * * *
< 生と死が紙一重の中で花子は翻訳を続けました >
「 … 『名前は何ていうの?』
子供はちょっとためらってから、『私をコーデリアと呼んでくださらない』と熱心に頼んだ。
『それが、あんたの名前なのかい?』
『いいえ、あの、私の名前ってわけじゃないんですけれど、コーデリアと呼ばれたいんです。
素晴らしく優美な名前なんですもの』
『何を言ってるか、さっぱり分からないね。
コーデリアというんでないなら、何という名前なの?』
『 … アン・シャーリー』」
* * * * * * * * * *
「 … アンって私によく似てる」
物語の主人公アン・シャーリーと自分の共通点を見つけるたびに頬を緩ませる花子だった。
いつしか、アンのことがまるで自分の分身のように思えていた。
「てっ … 何を言ってるでえ ~ おらに似てるずら」
突然聞こえたその声に花子は驚いて振り返った。
何とそこには、子供の頃 … ちょうど、秀和女学校に入学した頃の自分にそっくりの少女が立っていた。
「ぐっどいぶに~んぐ、花子」
吉平方式の英語の挨拶を知っているその少女はもしかしたら …
「てっ … あなた、私 … はな?」
「はなじゃねえ、おらのことは花子と呼んでくりょう」
少女は少し怒ったように言った。
間違いない少女は花子自身だ。
「てっ … やっぱり私だ」
呆気にとられている花子に構わず、はなは仕事机に近づくと『Anne of Green Gables』の原書を指さした。
「その本、面白そうじゃんけ?」
「ええ … すごく面白いわよ」
「おらも読みてえ、ちょっこし読ましてくれちゃあ」
好奇心いっぱいのはなに花子は快く『Anne of Green Gables』を手渡した。
* * * * * * * * * *
「てっ … 英語じゃん、全部英語じゃんけ!
花子はこれ全部読めるだけ?」
目をまん丸にしてはなは訊ねた。
「ええ、読めるわ。
あなたが秀和女学校にいる時、こぴっと頑張って英語を勉強してくれたお蔭で、私今翻訳の仕事をしているの」
花子は少し自慢げに答えた。
「 … 村岡花子という名前で」
はなはうれしそうに笑った。
「村岡花子 … おらも頑張ったけんど、花子も頑張ったじゃん!」
「ええ、ありがとうごいす」
花子は自分に褒められて奇妙な気分だったが、何といっても自分のことは自分が一番よく知っているのだ。
「この本、どんな話か教えてくれちゃあ」
「ええ!」
* * * * * * * * * *
「 … 物語の舞台はカナダのプリンスエドワード島。
主人公は赤毛でソバカスだらけの女の子、アン・シャーリー。
産まれて間もなく両親を亡くして、孤児院に預けられたアンはふとした間違いで男の子を欲しがっていたマシューとマリラという兄妹のお家へやって来るの。
マシューは働き者で無口なお祖父さんなんだけど、アンのことがとっても気に入ってしまって、マリラにこう言われるの。
『マシュー、きっとあの子に魔法でもかけられたんだね?
あんたがあの子をこの家に置きたがってるということがちゃんと顔に書いてありますよ』って」
* * * * * * * * * *
『「そうさな ~ あの子は、ほんに面白い子供だよ」って … 』
「て ~ お祖父やんみてえ」
はなはうれしそうだ。
「そうなの ~ マシューは『well,now ...』っていうのが口癖なんだけど、日本語で訳すと、お祖父やんの口癖だったあの言葉がぴったりなの」
そう言いながら、花子は大好きだった周造の顔を思い浮かべていた。
「あなたとアンは似ているところがたくさんあるの。
アンは11歳の時にひとりでプリンスエドワード島にやって来るんだけど … 」
「おらが秀和女学校に入って時みてえに?」
花子は笑顔でうなずいた。
「そう、その日からアンの運命は大きく変わっていくの」
「て ~ アンって本当におらにそっくりじゃん」
はなは目をキラキラと輝かせた。
「本当に私たちにそっくりなの」
* * * * * * * * * *
「花子、このお話はいつ本になるでえ?」
はなは胸をわくわくさせながら訊ねた。
花子は顔を曇らせた。
「 … それは、分からないの。
本に出来るかどうかも分からないわ」
「ほれなのに花子はどうして翻訳なんしてるで?」
はなの疑問はごく当たり前のことだった。
「それはね、私の中にアンが棲みついていて、絶えず私を励ましてくれるから … 先の見えない不安な時でも、アンは決して希望を見失わず、こう言うの。
『曲がり角を曲がった先に何があるのかは分からないの。
でも、それはきっと … きっと、一番良いものに違いないと思うの』って」
「曲がり角の先」
花子とはなは微笑みあった。
窓から射しこむ春の光、緩やかな風がカーテンを揺らしていた。
< … ごきげんよう、さようなら >
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2014年09月13日 (土) | 編集 |
第144回
< 空襲が激しくなる中、花子は家中の原稿用紙をかき集め、『Anne of Green Gables』の翻訳に取りかかりました。
そして、学徒出陣で陸軍に入り、訓練を受けていた純平が1年ぶうりに蓮子の元へ帰って来ました >
笑顔で出迎えた蓮子に純平は言った。
「特別休暇がもらえましたので」
それは、訓練を終えて、いよいよ戦地へと出征する日が近づいたということに他ならなかった。
* * * * * * * * * *
「この辺りは空襲で燃えなかったんですね。
東京で空襲が始まってから心配していました」
「今、何処にいるの?」
しかし、軍規のため母親にさえ赴任地を教えることは出来ないのだ。
「そう … いつまでいられるの?」
「明日の午後立ちます」
与えられた休暇はほんの僅かなものだった。
「じゃあ、今夜は泊まれるのね?」
「よろしいですか?」
純平はまるで他人行儀なことを口にした。
「当たり前じゃないの、ここはあなたお家ですよ」
すると、純平は少しためらいがちに訊ねた。
「父上は、あれから連絡はありませんか?」
「ええ」
「 … そうですか」
純平は龍一のことを気にしていたのだ。
結局、お互いに分かり合えないままだったことが心残りだった。
* * * * * * * * * *
「ねえ、お夕食は何がいいかしら?
手に入るものは限られているけれど … 」
「お母様の作るものであれば何でも」
「まあ、そんなお世辞まで言えるようになったのね?」
蓮子は努めて明るく振舞っていた。
* * * * * * * * * *
その後、蓮子が足を運んだのは、かよの店だった。
ここを訪れたのは、花子と決別した時以来のことだ。
「ごきげんよう … ご無沙汰しております」
「蓮子さん、本当にお久しぶりです」
再会を喜ぶかよに蓮子は言い難そうに切り出した。
「今日はお願いがあって参りました」
「はい?」
「入営している純平が、つい先ほど休暇で帰って参りましたの。
… お恥ずかしい話ですが、今晩食べさせてやるものが何もなくて困っているんです」
そこまでの話で、かよはすべてを察した。
「わかりました。
そういうことなら … ちょっと待っててくださいね」
蓮子に告げると、一度店の奥に姿を消した。
* * * * * * * * * *
一方、純平は村岡家に花子を訪ねていた。
「お母様、お変わりない?」
「お陰様で … 」
花子は純平に蓮子とは、しばらく会っていないことを打ち明けた。
「やはりそうでしたか」
純平は感づいていたのだ。
「母は以前、花子おば様のことをよく僕たちに話していました … 本当に楽しそうに。
でも、ある時から、パタリと何も言わなくなりました」
「ごめんなさい。
私たち、衝突してしまったの … お互い譲れないことがあって」
純平は寂しそうに笑った。
「皆、離れていきます。
うちは父も母も変わってますから … 」
「そんな … 」
花子は言葉に詰まってしまった。
* * * * * * * * * *
「母のことが心配です。
花子おば様、何かあった時は母を助けてやってください … お願いします!」
純平は畳に両手をついて頭を下げた。
「純平君 … 」
「どうしても、それだけを花子おば様にお願いしたくて」
戦場へ向かう純平が一番気がかりなのは母のことだったのだ。
「お邪魔しました」
仲違いした間柄であっても、花子ならきっと助けてくれる、純平はそう信じて席を立った。
「待って、純平君」
純平を引き留めた花子が台所から取ってきたのは、吉平が持たせてくれたブドウ酒だった。
「これ、今夜皆さんで召し上がって … お母様のお好きなブドウ酒よ」
「いいんですか、こんなに貴重なものを?」
「味は保証できないの。
甲府の実家の父が造ったブドウ酒だから」
何かあった時に役に立つかも知れないと、吉平が言った通り、その時は意外に早く来た。
「 … 遠慮なくいただきます」
* * * * * * * * * *
「純平君」
「はい」
花子は純平の顔を見つめ、そして視線を傍らにある歩の遺影に移した。
「うちの歩も生きていたら、あなたと同じように今頃兵隊さんになって出征していたはず …
あなたを送り出す蓮子さんの気持ちを思うとたまらないの」
花子には純平の姿が、成長した歩の面影と重なって見えて、胸が締め付けられる思いだった。
「お母様のために必ず帰って来なさい」
しかし純平はその言葉にうなずくことはしなかった。
「 … 母のこと、どうかどうか、よろしくお願いします」
念を押すように、花子に蓮子のことを頼んで深く頭を下げた。
* * * * * * * * * *
「どうしたんですか、こんなごちそう?」
蓮子が自分のためにこしらえてくれた鍋物を見て純平は目を丸くした。
「まるでおとぎの国から魔法使いがやって来たみたいでしょ?」
かよが用意してくれた材料のお蔭だった。
「お兄様、どうしたの?」
「何でもない、ただの休暇だ」
ちょうど帰って来た富士子が純平の姿に驚いた後、食卓の上の鍋にも驚いた。
「お鍋なんて何年ぶりかしら ~ もっとよく見たいわ」
富士子に代わって純平が明りを点けると、蓮子が新聞紙に包まった瓶が置いてあることに気づいた。
「これは?」
「ああ、大学の友人からもらってきたんだ。
今時珍しいだろう、ブドウ酒なんて」
純平は平然と答えたが、蓮子は腑に落ちない顔をしていた。
* * * * * * * * * *
「お母様は、もう飲まないんですか?」
夕食後も親子でワインを酌み交わしていたのだが、いつの間にか蓮子は飲むのを止めて純平の繕いものをはじめていた。
「何だか今日は胸がいっぱいで … 純平、召し上がれ」
「はい」
純平は湯呑に残っていたブドウ酒を飲み干した。
「ああ、美味い」
蓮子の顔を見てニッコリと笑った。
「 … そのブドウ酒は甲府のではないかしら?」
黙り込んだ純平を見て、蓮子は確信を持った。
「そうなのね?」
「実は今日、花子おば様に会って来ました」
蓮子は動揺を隠し平静を装った。
「そう … はなちゃん、元気だった?」
「はい、お母様のことお願いしてきました」
純平は包み隠さず話しはじめた。
「花子おば様に言われました。
お母様のためにも、無事に帰って来なさいと …
でも僕は、お母様や富士子のために戦って死ぬなら、悔いはありません」
清々しいほどの笑顔だった。
* * * * * * * * * *
「純平 … 親より先に死ぬくらい、親不孝なことはないのよ」
蓮子は涙を堪えて言った。
「お母様 … そんなこと言わないでください。
どうか、明日は笑顔で送り出してください」
* * * * * * * * * *
別れの時はやってきた。
「お母様行って参ります … 」
蓮子は純平に言葉を返すことも出来ずにただ見つめるだけだった。
「お元気で」
純平はそんな蓮子に向かって敬礼した後、歩き出した。
「純平!」
しばらく歩みを進めた純平の背中に向かって蓮子はようやく声をかけた。
ハッとして振り向く純平。
その目に懸命に笑顔を作った母の姿が見えた。
「武運長久を祈っています」
純平は蓮子の方に向き直ると力強く答えた。
「はいっ!」
笑顔で敬礼してみせると、踵を返して再び歩きはじめた。
蓮子は、涙でくしゃくしゃになった顔でその背中をいつまでも見送った。
* * * * * * * * * *
1945年(昭和20年)・4月15日。
その夜も、花子は『Anne of Green Gables』の翻訳を熱心に続けていた。
「曲がり角を曲がった先に何があるのかは分からないの。
でも、それはきっと … きっと、一番良いものに違いないと思うの … 」
突然、空襲警報のサイレンが聞こえてきた。
「美里、美里!」
花子は、美里の名を呼びながら、居間のラジオのスイッチを入れた。
『東部軍管区司令部発表 … 22時15分現在、敵機の第一目標は相模湾より逐次、帝都南西部地区に侵入する模様であります … 』
「お父様は?!」
美里が居間に駆け込んできた。
「夜勤で遅くなるの」
頭上に爆音が響き、花子は窓のカーテンを開けて、夜空を見上げた。
無数のB29が群れをなして飛んでいる。
ふたりが慌てて防空頭巾を被っている時、書斎の窓ガラスが突然砕け散った。
* * * * * * * * * *
「お母様!」
「美里、大丈夫? … 逃げましょう!」
振り返ると、書斎のカーテンが煌煌と燃えていた。
その火の粉が、書きかけの『Anne of Green Gables』の原稿の上に落ちた。
花子は駆け寄り、座布団を叩きつけて火を消そうとした。
しかし敵わないと知ると、原書と辞書を抱えて、書斎を飛び出した。
* * * * * * * * * *
空襲の中、逃げ惑う人々。
花子は美里と自分の頭巾に防火用水の水を浸し、そして火の粉が降る街並みを抜けて走った。
夜空を紅蓮に染めて燃え上る炎、空からは無数の焼夷弾が降ってくるのが見える。
< 焼夷弾が雨のように降る街を逃げながら花子は祈りました。
生きた証しとして、この本だけは訳したい … 花子の祈りは届くのでしょうか?
… ごきげんよう、さようなら >
< 空襲が激しくなる中、花子は家中の原稿用紙をかき集め、『Anne of Green Gables』の翻訳に取りかかりました。
そして、学徒出陣で陸軍に入り、訓練を受けていた純平が1年ぶうりに蓮子の元へ帰って来ました >
笑顔で出迎えた蓮子に純平は言った。
「特別休暇がもらえましたので」
それは、訓練を終えて、いよいよ戦地へと出征する日が近づいたということに他ならなかった。
* * * * * * * * * *
「この辺りは空襲で燃えなかったんですね。
東京で空襲が始まってから心配していました」
「今、何処にいるの?」
しかし、軍規のため母親にさえ赴任地を教えることは出来ないのだ。
「そう … いつまでいられるの?」
「明日の午後立ちます」
与えられた休暇はほんの僅かなものだった。
「じゃあ、今夜は泊まれるのね?」
「よろしいですか?」
純平はまるで他人行儀なことを口にした。
「当たり前じゃないの、ここはあなたお家ですよ」
すると、純平は少しためらいがちに訊ねた。
「父上は、あれから連絡はありませんか?」
「ええ」
「 … そうですか」
純平は龍一のことを気にしていたのだ。
結局、お互いに分かり合えないままだったことが心残りだった。
* * * * * * * * * *
「ねえ、お夕食は何がいいかしら?
手に入るものは限られているけれど … 」
「お母様の作るものであれば何でも」
「まあ、そんなお世辞まで言えるようになったのね?」
蓮子は努めて明るく振舞っていた。
* * * * * * * * * *
その後、蓮子が足を運んだのは、かよの店だった。
ここを訪れたのは、花子と決別した時以来のことだ。
「ごきげんよう … ご無沙汰しております」
「蓮子さん、本当にお久しぶりです」
再会を喜ぶかよに蓮子は言い難そうに切り出した。
「今日はお願いがあって参りました」
「はい?」
「入営している純平が、つい先ほど休暇で帰って参りましたの。
… お恥ずかしい話ですが、今晩食べさせてやるものが何もなくて困っているんです」
そこまでの話で、かよはすべてを察した。
「わかりました。
そういうことなら … ちょっと待っててくださいね」
蓮子に告げると、一度店の奥に姿を消した。
* * * * * * * * * *
一方、純平は村岡家に花子を訪ねていた。
「お母様、お変わりない?」
「お陰様で … 」
花子は純平に蓮子とは、しばらく会っていないことを打ち明けた。
「やはりそうでしたか」
純平は感づいていたのだ。
「母は以前、花子おば様のことをよく僕たちに話していました … 本当に楽しそうに。
でも、ある時から、パタリと何も言わなくなりました」
「ごめんなさい。
私たち、衝突してしまったの … お互い譲れないことがあって」
純平は寂しそうに笑った。
「皆、離れていきます。
うちは父も母も変わってますから … 」
「そんな … 」
花子は言葉に詰まってしまった。
* * * * * * * * * *
「母のことが心配です。
花子おば様、何かあった時は母を助けてやってください … お願いします!」
純平は畳に両手をついて頭を下げた。
「純平君 … 」
「どうしても、それだけを花子おば様にお願いしたくて」
戦場へ向かう純平が一番気がかりなのは母のことだったのだ。
「お邪魔しました」
仲違いした間柄であっても、花子ならきっと助けてくれる、純平はそう信じて席を立った。
「待って、純平君」
純平を引き留めた花子が台所から取ってきたのは、吉平が持たせてくれたブドウ酒だった。
「これ、今夜皆さんで召し上がって … お母様のお好きなブドウ酒よ」
「いいんですか、こんなに貴重なものを?」
「味は保証できないの。
甲府の実家の父が造ったブドウ酒だから」
何かあった時に役に立つかも知れないと、吉平が言った通り、その時は意外に早く来た。
「 … 遠慮なくいただきます」
* * * * * * * * * *
「純平君」
「はい」
花子は純平の顔を見つめ、そして視線を傍らにある歩の遺影に移した。
「うちの歩も生きていたら、あなたと同じように今頃兵隊さんになって出征していたはず …
あなたを送り出す蓮子さんの気持ちを思うとたまらないの」
花子には純平の姿が、成長した歩の面影と重なって見えて、胸が締め付けられる思いだった。
「お母様のために必ず帰って来なさい」
しかし純平はその言葉にうなずくことはしなかった。
「 … 母のこと、どうかどうか、よろしくお願いします」
念を押すように、花子に蓮子のことを頼んで深く頭を下げた。
* * * * * * * * * *
「どうしたんですか、こんなごちそう?」
蓮子が自分のためにこしらえてくれた鍋物を見て純平は目を丸くした。
「まるでおとぎの国から魔法使いがやって来たみたいでしょ?」
かよが用意してくれた材料のお蔭だった。
「お兄様、どうしたの?」
「何でもない、ただの休暇だ」
ちょうど帰って来た富士子が純平の姿に驚いた後、食卓の上の鍋にも驚いた。
「お鍋なんて何年ぶりかしら ~ もっとよく見たいわ」
富士子に代わって純平が明りを点けると、蓮子が新聞紙に包まった瓶が置いてあることに気づいた。
「これは?」
「ああ、大学の友人からもらってきたんだ。
今時珍しいだろう、ブドウ酒なんて」
純平は平然と答えたが、蓮子は腑に落ちない顔をしていた。
* * * * * * * * * *
「お母様は、もう飲まないんですか?」
夕食後も親子でワインを酌み交わしていたのだが、いつの間にか蓮子は飲むのを止めて純平の繕いものをはじめていた。
「何だか今日は胸がいっぱいで … 純平、召し上がれ」
「はい」
純平は湯呑に残っていたブドウ酒を飲み干した。
「ああ、美味い」
蓮子の顔を見てニッコリと笑った。
「 … そのブドウ酒は甲府のではないかしら?」
黙り込んだ純平を見て、蓮子は確信を持った。
「そうなのね?」
「実は今日、花子おば様に会って来ました」
蓮子は動揺を隠し平静を装った。
「そう … はなちゃん、元気だった?」
「はい、お母様のことお願いしてきました」
純平は包み隠さず話しはじめた。
「花子おば様に言われました。
お母様のためにも、無事に帰って来なさいと …
でも僕は、お母様や富士子のために戦って死ぬなら、悔いはありません」
清々しいほどの笑顔だった。
* * * * * * * * * *
「純平 … 親より先に死ぬくらい、親不孝なことはないのよ」
蓮子は涙を堪えて言った。
「お母様 … そんなこと言わないでください。
どうか、明日は笑顔で送り出してください」
* * * * * * * * * *
別れの時はやってきた。
「お母様行って参ります … 」
蓮子は純平に言葉を返すことも出来ずにただ見つめるだけだった。
「お元気で」
純平はそんな蓮子に向かって敬礼した後、歩き出した。
「純平!」
しばらく歩みを進めた純平の背中に向かって蓮子はようやく声をかけた。
ハッとして振り向く純平。
その目に懸命に笑顔を作った母の姿が見えた。
「武運長久を祈っています」
純平は蓮子の方に向き直ると力強く答えた。
「はいっ!」
笑顔で敬礼してみせると、踵を返して再び歩きはじめた。
蓮子は、涙でくしゃくしゃになった顔でその背中をいつまでも見送った。
* * * * * * * * * *
1945年(昭和20年)・4月15日。
その夜も、花子は『Anne of Green Gables』の翻訳を熱心に続けていた。
「曲がり角を曲がった先に何があるのかは分からないの。
でも、それはきっと … きっと、一番良いものに違いないと思うの … 」
突然、空襲警報のサイレンが聞こえてきた。
「美里、美里!」
花子は、美里の名を呼びながら、居間のラジオのスイッチを入れた。
『東部軍管区司令部発表 … 22時15分現在、敵機の第一目標は相模湾より逐次、帝都南西部地区に侵入する模様であります … 』
「お父様は?!」
美里が居間に駆け込んできた。
「夜勤で遅くなるの」
頭上に爆音が響き、花子は窓のカーテンを開けて、夜空を見上げた。
無数のB29が群れをなして飛んでいる。
ふたりが慌てて防空頭巾を被っている時、書斎の窓ガラスが突然砕け散った。
* * * * * * * * * *
「お母様!」
「美里、大丈夫? … 逃げましょう!」
振り返ると、書斎のカーテンが煌煌と燃えていた。
その火の粉が、書きかけの『Anne of Green Gables』の原稿の上に落ちた。
花子は駆け寄り、座布団を叩きつけて火を消そうとした。
しかし敵わないと知ると、原書と辞書を抱えて、書斎を飛び出した。
* * * * * * * * * *
空襲の中、逃げ惑う人々。
花子は美里と自分の頭巾に防火用水の水を浸し、そして火の粉が降る街並みを抜けて走った。
夜空を紅蓮に染めて燃え上る炎、空からは無数の焼夷弾が降ってくるのが見える。
< 焼夷弾が雨のように降る街を逃げながら花子は祈りました。
生きた証しとして、この本だけは訳したい … 花子の祈りは届くのでしょうか?
… ごきげんよう、さようなら >
2014年09月12日 (金) | 編集 |
第143回
< 昭和19年11月24日、武蔵野の軍需工場とその付近が攻撃され、品川、荏原、杉並にも爆弾が落とされました >
避難していた防空壕から出てきた花子とももは、青空を覆い尽くすほどの黒煙を目の当たりにして立ち尽くした。
< ついに東京が戦場となり、命を奪われる危険を人々は身をもって知ったのです >
* * * * * * * * * *
村岡家の前の通りは空襲から逃げてきた人たちが行きかい騒然としていた。
花子とももは軍需工場に働きに出ている英治と旭の安否が気になって、家の前に出て人混みの中にその姿を探した。
「花子さん!」
花子たちを見つけた英治と旭が駆け寄ってきた。
「よかった、ふたりとも無事で」
「おかえりなさい」
夫婦同士が手を取り合ってお互いの無事を喜びあった。
「花子さん、寝てなきゃだめだろう」
「だって、心配だったから … 」
「ご覧の通り、僕らは無事です」
英治も旭もかすり傷ひとつなく、
かよの店も被害がなかったことを知り、花子はホッと胸をなで下ろした。
* * * * * * * * * *
その晩、花子は英治に訊ねた。
「ねえ、英治さん。
もし明日、死んでしまうとしたら、英治さんは何をする?」
「どうしたんだよ、急に?」
「今日、防空壕の中で爆弾が落ちる音を聞いていて思ったの。
明日も生きているとは限らない … 今日が最後の日になるかも知れないって」
すると、英治は少しも迷うことなく答えた。
「そうだな、今日が人生最後の日だとしたら … 僕は花子さんが翻訳した本を読みたいな」
「明日死んでしまうかもしれないのに?」
英治はうなずいた。
「うん、他には何にもしないで、1日中読んでいたい」
先日の熱烈な手紙といい、英治はこの年になっても花子に対する愛情表現にためらうことはなかった。
花子の方が照れ笑いしてしまったが、やはりうれしかった。
「君は?」
「私は … 」
* * * * * * * * * *
書斎で『Anne of Green Gables』の原本を手に取った花子は、スコットからこの本を託された時のことを思い返していた。
「あなたに渡したい本があります」
花子はおもむろにペンを取ると、傍らにあった原稿用紙の上に走らせた。
『Anne of Green Gables』
< 平和になる時を待っているのではなく … 今、これが私のすべきことなのだ … その思いに突き動かされ、花子は久しぶりの翻訳に胸を高鳴らせていました >
体調もすっかり回復した花子は、次第に『Anne of Green Gables』の翻訳に没頭していった。
* * * * * * * * * *
数日後、甲府のふじから美里が居なくなったことを報せる電話がかかってきた。
美里は「東京に帰ります」という書置きを残していなくなったというのだ。
* * * * * * * * * *
花子とももは家の外に出て辺りを見回した。
「花子さん、美里が居なくなったって?!」
連絡を受けた英治が職場から戻って来た。
「ええ、ひとりで甲府の家を出たみたいで」
今にも取り乱しそうな花子の肩を英治はしっかりと掴んだ。
「美里ちゃん!」
路地の先からこちらに向かって走って来る美里の姿をももが見つけた。
「お父様、お母様!」
両親の姿を見つけてうれしそうに駆け寄った。
「美里 … よかった」
「美里!」
「ただいま帰りました」
明るく答えた美里の頬をももがいきなり叩いた。
「お母様がどれほど心配したと思っているの?!」
すごい剣幕で美里を叱った。
「もも … 」
「 … ごめんなさい」
美里は打たれた頬を押さえ、涙を溜めて謝った。
ももの思いもよらぬ行動に花子は驚くばかりだた。
そして、美里に手をかけてしまったもも自身も呆然としていた。
* * * * * * * * * *
家に入って、少し落ち着きを取り戻した美里に英治は訊ねた。
「どうして黙って勝手に帰ってきたりしたんだ?」
「お母様がご病気だって聞いて、ずっと心配だったの。
それに、東京に爆弾が落とされたって、皆が話してるの聞いて、私、じっとしていられない程心配になって。
… ごめんなさい」
「東京は、次またいつ空襲があるか分からないんだぞ」
「それでもいいわ … 私どうしてもお母様の傍に居たいの。
私、お父様やお母様と離れたくない!」
美里は、ふたりに懇願して頭を下げた。
英治も花子もそんな美里がいじらしかった。
だが、願いを聞き入れるということは美里を危険にさらすことでもあるのだ。
* * * * * * * * * *
「美里、お母様からも大切なお話があります」
「大切な話?」
「さっき、もも叔母様が美里を叩いたのは、心から心配してたからよ」
幼い美里には理解できなかったかもしれない。
「あのね、美里 … 」
英治は花子が美里に何を言おうとしているのか分かった。
それでも止めようとはせずに花子にすべてを任せたのだ。
「もも叔母様は、美里の本当のお母様なの」
「えっ?」
美里は目を大きく見開いて花子の顔を見た。
「美里の本当のお母様とお父様は、もも叔母様と旭叔父様なの」
愕然とした美里は、すがるように英治を見た。
「本当のことだよ」
その言葉にその目を一層見開いた。
* * * * * * * * * *
「突然こんな話してごめんなさい。
本当は美里がもっと大人になってから話そうと思っていたわ」
美里は再び花子を見た。
「でも、それではいけないと思い直したの。
戦争は今よりもっとひどくなるかも知れない … 空襲でいつ命を落とすかもわからない。
だから、今のうちに美里にきちんと話をしようと思ったの」
そう言いながら、花子は美里の手を取った。
「美里、よく聞いて。
お父様も、お母様も、美里を本当の子供だと思っているわ。
美里を心から愛してる」
花子は諭すように話した。
「美里、これからも僕ら家族だ」
英治は優し目で美里を見た。
美里は、ふたりを見て目を伏せた。
そして、立ち上がると黙ったまま居間から出て行ってしまった。
「美里 … 」
英治と花子は顔を見合わせた。
美里は分かってくれただろうか …
* * * * * * * * * *
その集団は、ある日突然やって来た。
いつものように翻訳をしていた花子が手を止めて、ももと共に応対に出ると、玄関には割烹着にタスキをかけた女性たちが立っていた。
かよが所属する、雪乃を中心とした水商売を生業にしている女性の集団だ。
当然、かよの姿もあった。
「かよ姉やんどうしたの?」
ももが訊ねると、先ず口を開いたのは雪乃だった。
「村岡花子さんですね」
「はい」
「お姉やんに訊きたいことがあって来たの」
かよは少し顔を強張らせている。
「村岡さんは英語の仕事をしていて、敵国にもたくさんお友達がいると聞きまして」
雪乃はまるで尋問でもするかのように訊ねた。
「お姉やん、隠れて変なことしてないよね?」
「ええ … 外国の友人たちは皆帰国して、もう連絡も取っていませんから」
「それなら皆さんに納得してもらうために見てもらってもいいよね?」
かよの言葉が終わるか終らないうちに雪乃が家に上がり込んできた。
「拝見させていただきます」
あれよあれよという間に全員が雪乃の後に続いた。
* * * * * * * * * *
勝手に上がり込んだ雪乃たちは電話の前に置いてあった住所録をめくりはじめた。
官憲でもあるまいに、家の中のものを調べる気なのだ。
ハッとした花子はその場を離れ、書斎に向かった。
* * * * * * * * * *
障子を閉め、仕事机の上に広げてあった『Anne of Green Gables』の原書と英英辞典を、傍らに置いてあったゆりかごの中に隠した。
それが精一杯だった。
障子を開けて、雪乃たちが入ってきたのだ。
「ここがお仕事部屋ですね」
雪乃は本棚を見て、顔をしかめた。
「村岡さん、敵性語の本、まだこんなにたくさんお持ちだったんですね」
床に積まれた本も殆どが洋書だった。
「お姉やんが英語の本を処分すれば、皆納得してくれると思う」
「そんな … 」
かよはそう言ったが、花子にとって無理な相談だ。
「はな、上がるぞ!」
その時、玄関から聞こえてきたのは、吉太郎の声だった。
* * * * * * * * * *
「あっ、兄やん大変なの ~ かよ姉やんが今、婦人会の人たち連れてきて … 」
慌てて出迎えたももを吉太郎は制した。
「それ聞いてきたんだ」
* * * * * * * * * *
敵性語の本を持っているなんて国賊だと、女性たちは花子を罵った。
「空から爆弾を落として、子供だろうが年寄だろうが、誰彼かまわず殺すような鬼畜米英の本ですよ。
そんなものをまだ大切に持ってるなんて … この非国民」
雪乃と花子が対峙している間を割って吉太郎が入ってきた。
「だから、こんな本は早く捨てろと言っただろ!」
花子を叱りつけた。
「兄やん?!」
「今すぐ敵性語の本を焼かせましょう。
ここにある本は自分が全部焼いて処分します」
吉太郎は、花子には信じがたいことを雪乃たちに言った。
* * * * * * * * * *
「兄やん、止めて!」
庭に置いた一斗缶にくべた炎の中へ、本を投げ入れようとする吉太郎のことを花子は懸命に止めた。
「離せ、離せ!」
「止めて、止めて、ダメ!」
しかし、吉太郎は腕にすがる花子を容赦なく振り払った。
その様子を見ていた、雪乃たちは納得して村岡家から立ち去っていった。
「兄やん、待って … 」
雪乃たちが居なくなったのを確認した吉太郎は力を緩めて本を花子に返した。
「 … 兄やん?」
「また、ああいう連中が来る。
密告者も多い … こういうものを持っていたら、スパイだと疑われるということだ」
追い払うより、処分させるところを見せて納得させて、自ら立ち去らせるために打ったひと芝居だったのだ。
* * * * * * * * * *
「そんなに本が大事か?」
吉太郎は憤然とした口調で花子に訊ねた。
花子はうなずいた。
「今の私には、命よりも大切なもの」
「理解できん … おら、もう守ってやれん」
吐き捨てるように言うと、吉太郎は帰って行った。
後を追うように、かよも無言で出て行った。
* * * * * * * * * *
夜になり、取りあえず本棚の洋書は英治が木箱にしまって隠した。
花子は … 昼間、あんなことがあったばかりなのに、『Anne of Green Gables』の翻訳を再開していた。
< この原書と辞書だけは手元に残し、花子は祈るような気持ちで翻訳を続けました >
* * * * * * * * * *
1945年(昭和20年)1月。
< 学徒出陣で陸軍に入り、訓練を受けていた純平が1年ぶりに帰って来ました >
「ただいま帰りました」
純平の突然の帰宅を、蓮子は驚きながらも喜んだ。
「まあ、純平お帰りなさい」
「特別休暇がもらえましたので」
それがどういう意味を指すのか、蓮子は知っていた …
< … ごきげんよう、さようなら >


< 昭和19年11月24日、武蔵野の軍需工場とその付近が攻撃され、品川、荏原、杉並にも爆弾が落とされました >
避難していた防空壕から出てきた花子とももは、青空を覆い尽くすほどの黒煙を目の当たりにして立ち尽くした。
< ついに東京が戦場となり、命を奪われる危険を人々は身をもって知ったのです >
* * * * * * * * * *
村岡家の前の通りは空襲から逃げてきた人たちが行きかい騒然としていた。
花子とももは軍需工場に働きに出ている英治と旭の安否が気になって、家の前に出て人混みの中にその姿を探した。
「花子さん!」
花子たちを見つけた英治と旭が駆け寄ってきた。
「よかった、ふたりとも無事で」
「おかえりなさい」
夫婦同士が手を取り合ってお互いの無事を喜びあった。
「花子さん、寝てなきゃだめだろう」
「だって、心配だったから … 」
「ご覧の通り、僕らは無事です」
英治も旭もかすり傷ひとつなく、
かよの店も被害がなかったことを知り、花子はホッと胸をなで下ろした。
* * * * * * * * * *
その晩、花子は英治に訊ねた。
「ねえ、英治さん。
もし明日、死んでしまうとしたら、英治さんは何をする?」
「どうしたんだよ、急に?」
「今日、防空壕の中で爆弾が落ちる音を聞いていて思ったの。
明日も生きているとは限らない … 今日が最後の日になるかも知れないって」
すると、英治は少しも迷うことなく答えた。
「そうだな、今日が人生最後の日だとしたら … 僕は花子さんが翻訳した本を読みたいな」
「明日死んでしまうかもしれないのに?」
英治はうなずいた。
「うん、他には何にもしないで、1日中読んでいたい」
先日の熱烈な手紙といい、英治はこの年になっても花子に対する愛情表現にためらうことはなかった。
花子の方が照れ笑いしてしまったが、やはりうれしかった。
「君は?」
「私は … 」
* * * * * * * * * *
書斎で『Anne of Green Gables』の原本を手に取った花子は、スコットからこの本を託された時のことを思い返していた。
「あなたに渡したい本があります」
花子はおもむろにペンを取ると、傍らにあった原稿用紙の上に走らせた。
『Anne of Green Gables』
< 平和になる時を待っているのではなく … 今、これが私のすべきことなのだ … その思いに突き動かされ、花子は久しぶりの翻訳に胸を高鳴らせていました >
体調もすっかり回復した花子は、次第に『Anne of Green Gables』の翻訳に没頭していった。
* * * * * * * * * *
数日後、甲府のふじから美里が居なくなったことを報せる電話がかかってきた。
美里は「東京に帰ります」という書置きを残していなくなったというのだ。
* * * * * * * * * *
花子とももは家の外に出て辺りを見回した。
「花子さん、美里が居なくなったって?!」
連絡を受けた英治が職場から戻って来た。
「ええ、ひとりで甲府の家を出たみたいで」
今にも取り乱しそうな花子の肩を英治はしっかりと掴んだ。
「美里ちゃん!」
路地の先からこちらに向かって走って来る美里の姿をももが見つけた。
「お父様、お母様!」
両親の姿を見つけてうれしそうに駆け寄った。
「美里 … よかった」
「美里!」
「ただいま帰りました」
明るく答えた美里の頬をももがいきなり叩いた。
「お母様がどれほど心配したと思っているの?!」
すごい剣幕で美里を叱った。
「もも … 」
「 … ごめんなさい」
美里は打たれた頬を押さえ、涙を溜めて謝った。
ももの思いもよらぬ行動に花子は驚くばかりだた。
そして、美里に手をかけてしまったもも自身も呆然としていた。
* * * * * * * * * *
家に入って、少し落ち着きを取り戻した美里に英治は訊ねた。
「どうして黙って勝手に帰ってきたりしたんだ?」
「お母様がご病気だって聞いて、ずっと心配だったの。
それに、東京に爆弾が落とされたって、皆が話してるの聞いて、私、じっとしていられない程心配になって。
… ごめんなさい」
「東京は、次またいつ空襲があるか分からないんだぞ」
「それでもいいわ … 私どうしてもお母様の傍に居たいの。
私、お父様やお母様と離れたくない!」
美里は、ふたりに懇願して頭を下げた。
英治も花子もそんな美里がいじらしかった。
だが、願いを聞き入れるということは美里を危険にさらすことでもあるのだ。
* * * * * * * * * *
「美里、お母様からも大切なお話があります」
「大切な話?」
「さっき、もも叔母様が美里を叩いたのは、心から心配してたからよ」
幼い美里には理解できなかったかもしれない。
「あのね、美里 … 」
英治は花子が美里に何を言おうとしているのか分かった。
それでも止めようとはせずに花子にすべてを任せたのだ。
「もも叔母様は、美里の本当のお母様なの」
「えっ?」
美里は目を大きく見開いて花子の顔を見た。
「美里の本当のお母様とお父様は、もも叔母様と旭叔父様なの」
愕然とした美里は、すがるように英治を見た。
「本当のことだよ」
その言葉にその目を一層見開いた。
* * * * * * * * * *
「突然こんな話してごめんなさい。
本当は美里がもっと大人になってから話そうと思っていたわ」
美里は再び花子を見た。
「でも、それではいけないと思い直したの。
戦争は今よりもっとひどくなるかも知れない … 空襲でいつ命を落とすかもわからない。
だから、今のうちに美里にきちんと話をしようと思ったの」
そう言いながら、花子は美里の手を取った。
「美里、よく聞いて。
お父様も、お母様も、美里を本当の子供だと思っているわ。
美里を心から愛してる」
花子は諭すように話した。
「美里、これからも僕ら家族だ」
英治は優し目で美里を見た。
美里は、ふたりを見て目を伏せた。
そして、立ち上がると黙ったまま居間から出て行ってしまった。
「美里 … 」
英治と花子は顔を見合わせた。
美里は分かってくれただろうか …
* * * * * * * * * *
その集団は、ある日突然やって来た。
いつものように翻訳をしていた花子が手を止めて、ももと共に応対に出ると、玄関には割烹着にタスキをかけた女性たちが立っていた。
かよが所属する、雪乃を中心とした水商売を生業にしている女性の集団だ。
当然、かよの姿もあった。
「かよ姉やんどうしたの?」
ももが訊ねると、先ず口を開いたのは雪乃だった。
「村岡花子さんですね」
「はい」
「お姉やんに訊きたいことがあって来たの」
かよは少し顔を強張らせている。
「村岡さんは英語の仕事をしていて、敵国にもたくさんお友達がいると聞きまして」
雪乃はまるで尋問でもするかのように訊ねた。
「お姉やん、隠れて変なことしてないよね?」
「ええ … 外国の友人たちは皆帰国して、もう連絡も取っていませんから」
「それなら皆さんに納得してもらうために見てもらってもいいよね?」
かよの言葉が終わるか終らないうちに雪乃が家に上がり込んできた。
「拝見させていただきます」
あれよあれよという間に全員が雪乃の後に続いた。
* * * * * * * * * *
勝手に上がり込んだ雪乃たちは電話の前に置いてあった住所録をめくりはじめた。
官憲でもあるまいに、家の中のものを調べる気なのだ。
ハッとした花子はその場を離れ、書斎に向かった。
* * * * * * * * * *
障子を閉め、仕事机の上に広げてあった『Anne of Green Gables』の原書と英英辞典を、傍らに置いてあったゆりかごの中に隠した。
それが精一杯だった。
障子を開けて、雪乃たちが入ってきたのだ。
「ここがお仕事部屋ですね」
雪乃は本棚を見て、顔をしかめた。
「村岡さん、敵性語の本、まだこんなにたくさんお持ちだったんですね」
床に積まれた本も殆どが洋書だった。
「お姉やんが英語の本を処分すれば、皆納得してくれると思う」
「そんな … 」
かよはそう言ったが、花子にとって無理な相談だ。
「はな、上がるぞ!」
その時、玄関から聞こえてきたのは、吉太郎の声だった。
* * * * * * * * * *
「あっ、兄やん大変なの ~ かよ姉やんが今、婦人会の人たち連れてきて … 」
慌てて出迎えたももを吉太郎は制した。
「それ聞いてきたんだ」
* * * * * * * * * *
敵性語の本を持っているなんて国賊だと、女性たちは花子を罵った。
「空から爆弾を落として、子供だろうが年寄だろうが、誰彼かまわず殺すような鬼畜米英の本ですよ。
そんなものをまだ大切に持ってるなんて … この非国民」
雪乃と花子が対峙している間を割って吉太郎が入ってきた。
「だから、こんな本は早く捨てろと言っただろ!」
花子を叱りつけた。
「兄やん?!」
「今すぐ敵性語の本を焼かせましょう。
ここにある本は自分が全部焼いて処分します」
吉太郎は、花子には信じがたいことを雪乃たちに言った。
* * * * * * * * * *
「兄やん、止めて!」
庭に置いた一斗缶にくべた炎の中へ、本を投げ入れようとする吉太郎のことを花子は懸命に止めた。
「離せ、離せ!」
「止めて、止めて、ダメ!」
しかし、吉太郎は腕にすがる花子を容赦なく振り払った。
その様子を見ていた、雪乃たちは納得して村岡家から立ち去っていった。
「兄やん、待って … 」
雪乃たちが居なくなったのを確認した吉太郎は力を緩めて本を花子に返した。
「 … 兄やん?」
「また、ああいう連中が来る。
密告者も多い … こういうものを持っていたら、スパイだと疑われるということだ」
追い払うより、処分させるところを見せて納得させて、自ら立ち去らせるために打ったひと芝居だったのだ。
* * * * * * * * * *
「そんなに本が大事か?」
吉太郎は憤然とした口調で花子に訊ねた。
花子はうなずいた。
「今の私には、命よりも大切なもの」
「理解できん … おら、もう守ってやれん」
吐き捨てるように言うと、吉太郎は帰って行った。
後を追うように、かよも無言で出て行った。
* * * * * * * * * *
夜になり、取りあえず本棚の洋書は英治が木箱にしまって隠した。
花子は … 昼間、あんなことがあったばかりなのに、『Anne of Green Gables』の翻訳を再開していた。
< この原書と辞書だけは手元に残し、花子は祈るような気持ちで翻訳を続けました >
* * * * * * * * * *
1945年(昭和20年)1月。
< 学徒出陣で陸軍に入り、訓練を受けていた純平が1年ぶりに帰って来ました >
「ただいま帰りました」
純平の突然の帰宅を、蓮子は驚きながらも喜んだ。
「まあ、純平お帰りなさい」
「特別休暇がもらえましたので」
それがどういう意味を指すのか、蓮子は知っていた …
< … ごきげんよう、さようなら >
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2014年09月11日 (木) | 編集 |
第142回
< 昭和19年夏、戦況はますます悪化し、花子は子供たちを甲府に疎開させることにしました >
1944年(昭和19年)・9月。
< 二学期が始まり、美里と直子は今日から甲府の国民学校に通い始めました >
転校一日目の学校を終えたふたりは朝市に送られて家に帰って来た。
美里も直子も顔が泥だらけだった。
今日は生徒全員で出征で男手がなくなった農家の手伝いをしてきたのだ。
「ふたりとも畑仕事なんてはじめてだから大変だったでしょ?」
「楽しかったよ」
直子は元気よく答えたが、美里が浮かない顔をしているのが花子は気にかかった。
* * * * * * * * * *
ちょうどそこへ野良仕事を終えたふじたちが戻って来た。
「ああ、ふたりともお帰り」
「ぐっどあふたぬ~ん、美里、直子」
吉平は懲りずに孫たちに英語で挨拶をした。
「お父、今は英語は控えた方がいいと思うの」
「おお、何でだ?」
またもや花子に注意された吉平は不機嫌な顔で訊きかえした。
「学校でも英語は使わんようにって、教えてるですよ」
朝市に説明されても、吉平は納得がいかないようだ。
「なんぼ敵性語だからって言ったって、別に英語は禁止なんて法律が出来た訳じゃねえら。
ほれなのに、英語を片っ端から妙な日本語にして …
野球のセーフは『よし』だの、サイダーは『噴出水』だの」
すると一緒に帰ってきていたリンが口を挟んできた。
「婿殿がほんなこん言ってるから、村の人らがいい顔しんだよ ~
ただでさえここんちは、親父も娘も西洋かぶれだて、ロクな噂されちゃいんだに」
「えっ?!」
花子が顔色を変えた。
「お母っ!」
朝市が口を滑らせたリンのことをにらみつけたが、後の祭りだった。
「ふんだけんど、本当のこんじゃん!」
* * * * * * * * * *
「言いてえ奴には言わしておきゃあいいだ」
吉平は少しも気にしてはいなかった。
「うちん中ぐれえ好きに英語しゃべったって、罰や当たらん」
「ほんなこん言ってちゃ、ほのうち石投げられても知らんよ」
リンの言葉を聞いた美里は目を伏せてしまった。
「投げてえ奴は、石でも何でもなげりゃあいいだ」
「 … うちは石を投げられて、窓ガラスが割れました」
* * * * * * * * * *
皆の視線が美里に集まった。
「 … 私が翻訳の仕事なんかしてるから、白い目で見られて … ふたりに怖い思いをさせてしまったの」
「ほうけ … 」
花子から打ち明けられた吉平は自分の迂闊さを後悔した。
* * * * * * * * * *
< 甲府で美里たちと数日過ごした花子は、離れがたくなる前に東京へ戻ることにしました >
帰り支度をはじめた花子に吉平とふじが米と味噌を用意して渡した。
「て ~ こんなにもらったら、お母たちが困るじゃん」
「ああ、うちは田舎だから、何とでもなるだ」
遠慮する花子にふたりは笑った。
「ももやかよにも食べさしてやってくりょう」
「ああ、ほうだ!」
吉平は思い出したように土間の隅に積んである藁の中からブドウ酒のビンを取り出してきた。
「これも、持ってけし」
「お父、それは … 」
「いいだ、いいだ ~ 何かあった時に役に立かも知れんら」
「ありがとう」
* * * * * * * * * *
「美里、直子ちゃん、お祖父やんやお祖母やん、それから朝市先生の言うことをよく聞いていい子にしてるのよ」
「はい」
直子はすぐに返事したが、美里は少し間があった。
そこへ、直子の同級生たちが川に行って遊ばないかと、誘いにやって来た。
「おばちゃま、行って来ていい?」
「ええ、いっぱい遊んでいらっしゃい」
花子が許可すると直子はうれしそうにうなずきながら、美里のことを誘った。
「 … 私はいい」
甲府の学校に直子はすぐに打ち解けたようだが、美里はどうにも馴染めないらしい。
* * * * * * * * * *
「お母様、私も一緒に東京に帰ってはダメ?」
直子が出かけるとすぐに美里は花子に訊ねてきた。
「美里 …
東京のお友達も近いうちに皆、疎開してしまうのよ。
東京に帰るよりもここで新しいお友達を作った方が楽しいわよ。
直子ちゃんの面倒もこぴっと見てあげてね」
美里はさみしげに笑うと、うなずいてみせた。
しかし、花子が汽車の時間が近づいたことを伝えると、すがるような目で花子を見つめた。
「お母様 … 」
「美里、お手紙書くから、美里も書いてね」
「ええ、書くわ … お父様とお母様に」
花子は、吉平とふじに子供たちのことを託すと、後ろ髪を引かれる思いで甲府を後にしたのだった。
* * * * * * * * * *
その晩の村岡家は、花子が持ち帰った白米を炊いて、もも夫妻と共に食卓を囲んだ。
「銀飯なんて本当に久しぶりだな ~ 」
しみじみと言った旭にももが釘を刺した。
「明日からまた代用食ですよ。
お姉やんが持ってきてくれたお米や味噌は、大事にとっておかないと」
「分かってるよ … いつまでこんな生活が続くんですかね」
旭でなくても愚痴りたい気分だろう。
「花子さん、どうしたの?」
英治は、ふと花子の様子がおかしいことに気づいた。
食が進まず箸を置いたままで、頬が異常に赤く、見るからに辛そうだ。
「ああ、ちょっと疲れてしまって … 」
「重い荷物持って汽車に揺られたから?」
ももが心配そうに花子の顔を覗きこんだ。
「大丈夫?」
「ええ … ちょっと先に休ませてもらうわ」
花子は席を立とうとしたが足元がふらついて、倒れてしまった。
* * * * * * * * * *
「花子さん?!」
「お姉やん?!」
英治は駆け寄って、花子の額に手を当てた。
「すごい熱じゃないか … 」
* * * * * * * * * *
往診に訪れた医者の診たてによると、花子の症状はジフテリアによるものだった。
「感染の危険がありますから、症状が落ち着くまで、奥さんの部屋には絶対に誰も入らんこと」
< ジフテリアというのは、心臓麻痺や神経麻痺を起して、死に至ることもある病気です >
* * * * * * * * * *
甲府に英治からの手紙が届いた。
「ふじ、はなが病気になったらしい … ジフテリアちゅう、人に伝染る病気だと」
容態は落ち着いたとは書いてあると吉平は言った。
「お母様、ご病気なの?」
ちょうど学校から戻った美里が入口で、その話を耳にしてしまった。
「心配しなんでいい。
お父様が優秀なお医者さんを見っけてくれたらしい ~ 必ずよくなるら」
吉平は笑って安心させようとしたが、母を思う美里の不安は消えなかった。
* * * * * * * * * *
その夜、美里はひとり布団を抜け出して、ランプの灯りの下、花子への手紙を書いた。
『お母様、ご病気だと聞きましたが、お加減いかがですか … 』
* * * * * * * * * *
まだ少し咳き込むことがあるが、熱も下がり、病床に体を起こすことが出来るまでに回復した花子の元に美里からの手紙が届いた。
友達も出来て、毎日楽しく学校で勉強しているという文面は、美里のことが気がかりだった花子を安心させた。
「美里、元気でやってるのね … よかった」
< 美里は花子を心配させたくなくて、そう書いたのですが … >
* * * * * * * * * *
「美里ちゃん、ずっと学校に馴染めんみてえで … 今日も東京もんってこんでからかわれたらしくて、校庭の隅で泣いてたです」
朝市に伴われて帰って来た美里はただ泣いているだけだった。
「ほうか … 」
美里の悲しげな泣き顔を見て、吉平とふじは胸が痛んだ。
「今まで気づいてやれなんですみません」
「朝市のせいじゃないさ ~
美里ちゃんは優しいから、きっと東京のお母の病気のこんが心配で心細かっただよ」
ふじが優しく頭を撫でると、美里は堪え切れずに抱きついてきた。
誰にも話せず、ひとりでじっと耐えていた美里が不憫で、ふじはしっかりと抱きしめた。
* * * * * * * * * *
「 … 花子さん、具合はどう?
お粥作ったんだけど」
いまだに医者から許可が下りてはいないため、英治は部屋の外から声をかけた。
「ありがとう、英治さん」
英治は障子を開けると、お粥の乗った盆を部屋の隅に置いた。
花子の顔を一瞬見ただけだった。
再び閉められた障子の向こうから英治は訊ねた。
「何か欲しいものはない?」
「あ … じゃあ、あの本を」
「Anne of Green Gables ?」
「ええ」
「わかった … 後で持ってくるけど、まだ無理しちゃダメだよ」
花子はお粥が乗った盆の上に封筒が置いてあるのを見つけた。
「 … これ?」
「後で、気分がよくなった時にでも読んで」
英治は少し照れて言うと部屋の前から去って行った。
花子は眼鏡をかけると、すぐに封筒から取り出した手紙に目を通した。
「 … 愛しい花子さん。
ひとつ屋根の下に居ながら、君に会えないとは … 僕らを遮る障子が憎い」
熱はすっかり下がったはずの花子の頬が赤く染まっていた。
* * * * * * * * * *
1944年(昭和19年)11月。
< 二ヶ月、病気と闘った花子は随分回復しました >
ようやく隔離からも解放された花子は、寝間着のままだが居間のこたつに座って読書をしていた。
「お昼ご飯出来たよ」
ももがお粥を運んできた時のことだった。
突然、けたたましく鳴り響くサイレンが聞こえてきた。
「 … 空襲?」
今まで訓練でしか聞いたことのないそれは空襲を報せるサイレンだった。
「お姉やん、逃げよう!」
ももが防空頭巾を取って、花子に渡した。
「待って、辞書を持っていかないと … 」
「私が取って来るから、お姉やんは先に防空壕に入って」
* * * * * * * * * *
ももの言うことに従って、読んでいた『Anne of Green Gables』を手に花子は防空壕のある庭へ飛び出した。
ふと上空を見上げると、何十機いや何百機もの敵機が高い空を飛んで行くのが見えて、思わず足が止まってしまった。
* * * * * * * * * *
辞書を抱えて、防空壕の戸を開けたももは中に花子が居ないことに気づいた。
「お姉やん、早く!」
玄関の前で空を見上げていた花子に叫んだ。
ふたりは慌てて防空壕へと逃げ込んだ。
ずしんずしんと爆音が防空壕の中まで響いてくる。
「お姉やん」
「大丈夫」
声を掛けあって身を寄せ合った。
* * * * * * * * * *
どれくらいの時間が経ったのだろう。
外が静かになり、空襲警報が解除されたようだ。
ふたりは防空後の戸を開けて外へ出た。
遠くの喧騒が微かに聞こえてくる。
その時、顔を上げたふたりが見たものは … 青空を覆い尽くすほどの黒煙が路地の先の建物の後ろから立ち上がっている光景だった。
< ついに東京も戦場となってしまいました。
この日、東京中の人々が戦争の恐怖を身をもって知ったのでした。
… ごきげんよう、さようなら >


< 昭和19年夏、戦況はますます悪化し、花子は子供たちを甲府に疎開させることにしました >
1944年(昭和19年)・9月。
< 二学期が始まり、美里と直子は今日から甲府の国民学校に通い始めました >
転校一日目の学校を終えたふたりは朝市に送られて家に帰って来た。
美里も直子も顔が泥だらけだった。
今日は生徒全員で出征で男手がなくなった農家の手伝いをしてきたのだ。
「ふたりとも畑仕事なんてはじめてだから大変だったでしょ?」
「楽しかったよ」
直子は元気よく答えたが、美里が浮かない顔をしているのが花子は気にかかった。
* * * * * * * * * *
ちょうどそこへ野良仕事を終えたふじたちが戻って来た。
「ああ、ふたりともお帰り」
「ぐっどあふたぬ~ん、美里、直子」
吉平は懲りずに孫たちに英語で挨拶をした。
「お父、今は英語は控えた方がいいと思うの」
「おお、何でだ?」
またもや花子に注意された吉平は不機嫌な顔で訊きかえした。
「学校でも英語は使わんようにって、教えてるですよ」
朝市に説明されても、吉平は納得がいかないようだ。
「なんぼ敵性語だからって言ったって、別に英語は禁止なんて法律が出来た訳じゃねえら。
ほれなのに、英語を片っ端から妙な日本語にして …
野球のセーフは『よし』だの、サイダーは『噴出水』だの」
すると一緒に帰ってきていたリンが口を挟んできた。
「婿殿がほんなこん言ってるから、村の人らがいい顔しんだよ ~
ただでさえここんちは、親父も娘も西洋かぶれだて、ロクな噂されちゃいんだに」
「えっ?!」
花子が顔色を変えた。
「お母っ!」
朝市が口を滑らせたリンのことをにらみつけたが、後の祭りだった。
「ふんだけんど、本当のこんじゃん!」
* * * * * * * * * *
「言いてえ奴には言わしておきゃあいいだ」
吉平は少しも気にしてはいなかった。
「うちん中ぐれえ好きに英語しゃべったって、罰や当たらん」
「ほんなこん言ってちゃ、ほのうち石投げられても知らんよ」
リンの言葉を聞いた美里は目を伏せてしまった。
「投げてえ奴は、石でも何でもなげりゃあいいだ」
「 … うちは石を投げられて、窓ガラスが割れました」
* * * * * * * * * *
皆の視線が美里に集まった。
「 … 私が翻訳の仕事なんかしてるから、白い目で見られて … ふたりに怖い思いをさせてしまったの」
「ほうけ … 」
花子から打ち明けられた吉平は自分の迂闊さを後悔した。
* * * * * * * * * *
< 甲府で美里たちと数日過ごした花子は、離れがたくなる前に東京へ戻ることにしました >
帰り支度をはじめた花子に吉平とふじが米と味噌を用意して渡した。
「て ~ こんなにもらったら、お母たちが困るじゃん」
「ああ、うちは田舎だから、何とでもなるだ」
遠慮する花子にふたりは笑った。
「ももやかよにも食べさしてやってくりょう」
「ああ、ほうだ!」
吉平は思い出したように土間の隅に積んである藁の中からブドウ酒のビンを取り出してきた。
「これも、持ってけし」
「お父、それは … 」
「いいだ、いいだ ~ 何かあった時に役に立かも知れんら」
「ありがとう」
* * * * * * * * * *
「美里、直子ちゃん、お祖父やんやお祖母やん、それから朝市先生の言うことをよく聞いていい子にしてるのよ」
「はい」
直子はすぐに返事したが、美里は少し間があった。
そこへ、直子の同級生たちが川に行って遊ばないかと、誘いにやって来た。
「おばちゃま、行って来ていい?」
「ええ、いっぱい遊んでいらっしゃい」
花子が許可すると直子はうれしそうにうなずきながら、美里のことを誘った。
「 … 私はいい」
甲府の学校に直子はすぐに打ち解けたようだが、美里はどうにも馴染めないらしい。
* * * * * * * * * *
「お母様、私も一緒に東京に帰ってはダメ?」
直子が出かけるとすぐに美里は花子に訊ねてきた。
「美里 …
東京のお友達も近いうちに皆、疎開してしまうのよ。
東京に帰るよりもここで新しいお友達を作った方が楽しいわよ。
直子ちゃんの面倒もこぴっと見てあげてね」
美里はさみしげに笑うと、うなずいてみせた。
しかし、花子が汽車の時間が近づいたことを伝えると、すがるような目で花子を見つめた。
「お母様 … 」
「美里、お手紙書くから、美里も書いてね」
「ええ、書くわ … お父様とお母様に」
花子は、吉平とふじに子供たちのことを託すと、後ろ髪を引かれる思いで甲府を後にしたのだった。
* * * * * * * * * *
その晩の村岡家は、花子が持ち帰った白米を炊いて、もも夫妻と共に食卓を囲んだ。
「銀飯なんて本当に久しぶりだな ~ 」
しみじみと言った旭にももが釘を刺した。
「明日からまた代用食ですよ。
お姉やんが持ってきてくれたお米や味噌は、大事にとっておかないと」
「分かってるよ … いつまでこんな生活が続くんですかね」
旭でなくても愚痴りたい気分だろう。
「花子さん、どうしたの?」
英治は、ふと花子の様子がおかしいことに気づいた。
食が進まず箸を置いたままで、頬が異常に赤く、見るからに辛そうだ。
「ああ、ちょっと疲れてしまって … 」
「重い荷物持って汽車に揺られたから?」
ももが心配そうに花子の顔を覗きこんだ。
「大丈夫?」
「ええ … ちょっと先に休ませてもらうわ」
花子は席を立とうとしたが足元がふらついて、倒れてしまった。
* * * * * * * * * *
「花子さん?!」
「お姉やん?!」
英治は駆け寄って、花子の額に手を当てた。
「すごい熱じゃないか … 」
* * * * * * * * * *
往診に訪れた医者の診たてによると、花子の症状はジフテリアによるものだった。
「感染の危険がありますから、症状が落ち着くまで、奥さんの部屋には絶対に誰も入らんこと」
< ジフテリアというのは、心臓麻痺や神経麻痺を起して、死に至ることもある病気です >
* * * * * * * * * *
甲府に英治からの手紙が届いた。
「ふじ、はなが病気になったらしい … ジフテリアちゅう、人に伝染る病気だと」
容態は落ち着いたとは書いてあると吉平は言った。
「お母様、ご病気なの?」
ちょうど学校から戻った美里が入口で、その話を耳にしてしまった。
「心配しなんでいい。
お父様が優秀なお医者さんを見っけてくれたらしい ~ 必ずよくなるら」
吉平は笑って安心させようとしたが、母を思う美里の不安は消えなかった。
* * * * * * * * * *
その夜、美里はひとり布団を抜け出して、ランプの灯りの下、花子への手紙を書いた。
『お母様、ご病気だと聞きましたが、お加減いかがですか … 』
* * * * * * * * * *
まだ少し咳き込むことがあるが、熱も下がり、病床に体を起こすことが出来るまでに回復した花子の元に美里からの手紙が届いた。
友達も出来て、毎日楽しく学校で勉強しているという文面は、美里のことが気がかりだった花子を安心させた。
「美里、元気でやってるのね … よかった」
< 美里は花子を心配させたくなくて、そう書いたのですが … >
* * * * * * * * * *
「美里ちゃん、ずっと学校に馴染めんみてえで … 今日も東京もんってこんでからかわれたらしくて、校庭の隅で泣いてたです」
朝市に伴われて帰って来た美里はただ泣いているだけだった。
「ほうか … 」
美里の悲しげな泣き顔を見て、吉平とふじは胸が痛んだ。
「今まで気づいてやれなんですみません」
「朝市のせいじゃないさ ~
美里ちゃんは優しいから、きっと東京のお母の病気のこんが心配で心細かっただよ」
ふじが優しく頭を撫でると、美里は堪え切れずに抱きついてきた。
誰にも話せず、ひとりでじっと耐えていた美里が不憫で、ふじはしっかりと抱きしめた。
* * * * * * * * * *
「 … 花子さん、具合はどう?
お粥作ったんだけど」
いまだに医者から許可が下りてはいないため、英治は部屋の外から声をかけた。
「ありがとう、英治さん」
英治は障子を開けると、お粥の乗った盆を部屋の隅に置いた。
花子の顔を一瞬見ただけだった。
再び閉められた障子の向こうから英治は訊ねた。
「何か欲しいものはない?」
「あ … じゃあ、あの本を」
「Anne of Green Gables ?」
「ええ」
「わかった … 後で持ってくるけど、まだ無理しちゃダメだよ」
花子はお粥が乗った盆の上に封筒が置いてあるのを見つけた。
「 … これ?」
「後で、気分がよくなった時にでも読んで」
英治は少し照れて言うと部屋の前から去って行った。
花子は眼鏡をかけると、すぐに封筒から取り出した手紙に目を通した。
「 … 愛しい花子さん。
ひとつ屋根の下に居ながら、君に会えないとは … 僕らを遮る障子が憎い」
熱はすっかり下がったはずの花子の頬が赤く染まっていた。
* * * * * * * * * *
1944年(昭和19年)11月。
< 二ヶ月、病気と闘った花子は随分回復しました >
ようやく隔離からも解放された花子は、寝間着のままだが居間のこたつに座って読書をしていた。
「お昼ご飯出来たよ」
ももがお粥を運んできた時のことだった。
突然、けたたましく鳴り響くサイレンが聞こえてきた。
「 … 空襲?」
今まで訓練でしか聞いたことのないそれは空襲を報せるサイレンだった。
「お姉やん、逃げよう!」
ももが防空頭巾を取って、花子に渡した。
「待って、辞書を持っていかないと … 」
「私が取って来るから、お姉やんは先に防空壕に入って」
* * * * * * * * * *
ももの言うことに従って、読んでいた『Anne of Green Gables』を手に花子は防空壕のある庭へ飛び出した。
ふと上空を見上げると、何十機いや何百機もの敵機が高い空を飛んで行くのが見えて、思わず足が止まってしまった。
* * * * * * * * * *
辞書を抱えて、防空壕の戸を開けたももは中に花子が居ないことに気づいた。
「お姉やん、早く!」
玄関の前で空を見上げていた花子に叫んだ。
ふたりは慌てて防空壕へと逃げ込んだ。
ずしんずしんと爆音が防空壕の中まで響いてくる。
「お姉やん」
「大丈夫」
声を掛けあって身を寄せ合った。
* * * * * * * * * *
どれくらいの時間が経ったのだろう。
外が静かになり、空襲警報が解除されたようだ。
ふたりは防空後の戸を開けて外へ出た。
遠くの喧騒が微かに聞こえてくる。
その時、顔を上げたふたりが見たものは … 青空を覆い尽くすほどの黒煙が路地の先の建物の後ろから立ち上がっている光景だった。
< ついに東京も戦場となってしまいました。
この日、東京中の人々が戦争の恐怖を身をもって知ったのでした。
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2014年09月10日 (水) | 編集 |
第141回
< シンガポールに行っていた醍醐が帰って来ました >
「醍醐さん、帰っていらしたのね」
花子が亜矢子が無事に戻ったことを喜んだのも束の間だった。
「醍醐さん?!」
玄関先で佇む亜矢子は青ざめた顔で、花子を見るなり、その目をうるませた。
「はなさん … 」
「醍醐さん、どうしたの?」
* * * * * * * * * *
「 … ごめんなさい。
突然、泣き出したりしてしまって … はなさんの顔見たら、何だか安心して」
亜矢子は涙を拭った。
「いつお帰りになってたの?」
「少し前に … 昭南市は戦闘が終わっていたから安全だったわ。
結局、戦地らしい戦地は見ずに帰って来たの」
まるで何かに怯えているかのように、小声でうつむき加減に話す亜矢子にいつもの明るさの欠片もなかった。
「 … でも、戦争とはどういうものなのか、少し分かった気がするわ。
死って遠くにあると思っていたけれど、すぐ隣にあるものなのね」
* * * * * * * * * *
数日後、梶原が聡文堂を休業するという報告のため村岡家を訪れた。
「もちろん、再開したあかつきはまた原稿お願いします」
「はい是非 … 英治さんも青凛社を再開するつもりですから、印刷の方もぜひお願いします」
先はまったく見えない毎日だったが、梶原も花子たちも希望は捨ててはいなかった。
「あの … 醍醐さんとはお会いになりましたか?」
「そういえば日本に帰って来たようだね ~ 連絡あった?」
「ええ、先日いらして … 」
梶原は何か話を聞いたのか訊ねた。
花子の脳裏に亜矢子の虚ろな顔が浮かんだ。
「 … 余り話したくないようでした」
「そう … 」
「あんなに明るかった醍醐さんから表情がなくなっていて … 向こうで何があったんでしょう?」
* * * * * * * * * *
「ご家族から伺っただけなんだが、帰りの船で随分怖い思いをしたらしい」
梶原の話では、亜矢子が便乗していた船団がアメリカの潜水艦の魚雷攻撃に遭って、かなり沈められたようだった。
「沈んだ船の乗客は海に投げ出された。
だが、いつ次の攻撃が来るか分からない状況で、とても船を止めて救うことはできない … 」
亜矢子が乗っていた船は … 海に漂いながら、必死に助けを求める人々を見捨てて、逃げるしかなかったのだ。
「醍醐君、帰国してから部屋に閉じこもってしまって、誰とも会おうとしないそうだ」
花子はそんな状態の中、会いに来てくれた亜矢子に対して何もできなかった自分がはがゆかった。
< 醍醐から笑顔を奪ってしまうほどの戦争の悲惨さを、花子も初めて身近に感じたのでした >
* * * * * * * * * *
そんなある日、甲府から吉平がやって来た。
「おお、美里、直子 ~ ぐっどあふたぬ~ん!」
縁側でビンに入れた玄米を棒でついていた孫たちに向かって、いつもの調子で挨拶した吉平を花子は慌てて諌めた。
「ぐっとあふたぬ~ん、お祖父やん」
「直子ちゃん、英語は使っちゃダメ」
年長の美里も直子に注意したが、肝心の吉平は首をひねっていた。
「お父、とにかくよく来てくれたね」
花子に歓迎された吉平は庭の片隅を耕して作った僅かばかりの畑に目をやった。
「ほう、えらく立派な畑作ったじゃん ~ 草取りけ、ああ、精が出るな」
花子は雑草を手にしながら、気まずそうに答えた。
「あっ、ううん違うの … 今夜のお汁の具を探してて」
「えっ?!
話には聞いてたけんど、東京はほんなに食うもんに困ってるだか?」
「うん、配給の量も減ってきてしまって … 」
花子は顔を曇らせたが、吉平はうれしそうに笑った。
「ほれじゃあ、やっぱし持ってきてよかったじゃん」
* * * * * * * * * *
縁側に腰を下ろした吉平は懐から小袋を取り出してみせた。
「ほれ、米じゃ」
それもひとつだけでなく小袋は手品のように次から次へと現れた。
「白いお米だ!」
袋からこぼれた白米を見て直子が声を上げた。
「こんなにたくさん?!」
花子が驚いていると、今度は同じように小分けにして紐で結ばれた味噌が出てきた。
「味噌じゃ、ほれっほれっ」
* * * * * * * * * *
「お父?!」
その後、吉平は花子と英治を伴ってかよの店を訪れた。
「ふたりとも元気そうじゃんけ ~ 」
カウンターの中でせっせと働く、かよとももの姿を見て安堵したようだ。
「お陰様でなんとかやってる。
甲府は変わりない? お母は元気にしてる?」
ももの矢継ぎ早の質問にも笑顔でうなずいた。
「あっちは皆元気だ」
* * * * * * * * * *
「 … お父がね、お米と味噌を持ってきてくれたの」
花子が小声でかよに話すと、英治がそっと紙袋をカウンターに置いた。
「て ~ こんなにもらっていいの?」
「遠慮なん、しなんでいい。
ほれから、こっちはうちで造ったブドウ酒じゃん」
吉平の懐はどれだけ物が入るのだろう … 新聞紙で包んだビンを取り出した。
「えっ、お父、ブドウ酒なんて造りはじめたの?」
「声がでけえっ」
* * * * * * * * * *
ももの声に反応したかのように、客席を占めていた軍人たちが一斉に席を立った。
吉平は慌ててビンを隠そうとしたが … 取り越し苦労だった。
「かよさん、ごちそうさん」
食事を終えた軍人たちはそのまま店を出て行ってしまった。
* * * * * * * * * *
空いたテーブル席に移りながら吉平は言った。
「かよ、コップくりょう ~ このブドウ酒、英治君にも飲んでもれえてえだ」
「お父、そのブドウ酒、本当に飲めるの?」
花子は疑わしそうな顔で覗きこんだ。
「バカにしてもらっちゃあ困る … 徳丸んとこにゃあ負けんだぞ」
「それは楽しみです」
英治は吉平につき合って隣の席に座っている。
「いいけ、かよ … ブドウ酒、あんな軍人なんぞに出すんじゃねえぞ」
コップを運んできたかよに吉平は釘を刺した。
「え、なんで?」
「あいつら、甲州のブドウ酒、根こそぎ持っていって … どうせ夜な夜な宴会でもやってるずら」
「そんなこと軍人さんに失礼だよ。
お国のために働いてくださってるのに」
かよは反論したが、吉平は譲らない。
「ほりゃあ、俺たちも一緒じゃん」
「お父は何も分かってない!」
かよには珍しく声を荒げた。
「ふたりとも落ち着いて!」
ふたりの間にももが割って入り、英治はブドウ酒の栓を抜いて吉平に勧めた。
「さあ、お義父さん飲みましょう」
かよはプイッとカウンターに戻ってしまった。
「うん、これは美味いですね ~ 」
英治にぶどう酒を褒められ、吉平はご機嫌だ。
* * * * * * * * * *
「ああ、そうだ … 今日は、かよとももに相談があって来たの」
花子は思い出したように言った。
「相談?」
「お父がね、甲府に疎開して来ないかって」
「甲府には食いもんはある … 東京から疎開してきている人もいる。
食べ盛りのボコにためにも、皆で甲府に疎開してこうし」
花子は美里を甲府で預かってもらおうと思っていることをももに伝えた。
「8月には生徒たちの集団疎開の計画もあるみたいだから … 」
「そう … お姉やんはどうするの?」
ももに訊かれて、花子は自分は東京に残ると言った。
「英治さんも仕事があって東京を離れる訳にはいかないし、うちには大切な本もたくさんあるし …
かよはどうする?」
「私はいかない」
考える間もなくかよは答えた。
「何でだ ~ 大した配給もねえに、店やっていくのも苦しいら?」
確かに吉平の言う通りなのだが … かよにはこの店を離れたくない理由があった。
「私にとって、この店は命より大切なもんだ。
物不足で大変だけど、何とかやってく」
それを聞いて吉平も口をつぐんでしまった。
「私は東京に残って、この店を守る」
肉親であっても口を挟む余地がない、かよの固い決意だった。
* * * * * * * * * *
結局、甲府には、美里と直子、子供たちだけを疎開させることになり、花子がふたりを実家まで預けに連れてきた。
「お祖父、お祖母やん来たよ ~ 」
元気いっぱいで家の中に駆け込んできた直子を、ふじと吉平は喜び勇んで出迎えた。
「待ってただよ ~ 」
「ごきげんよう」
< 美里と直子が安東家にやって来るのははじめてです >
「さあさあ、上がれし、上がれし」
ふじが子供たちに家に上がるように促した。
「 … ふたりとも、その前に」
花子はふたりに目で合図した。
「はいっ!
今日からお世話になります ~ よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
しっかりと約束してきたのだろう、美里だけでなく直子も一緒に、ふじと吉平に向かってきちんと頭を下げて挨拶した。
* * * * * * * * * *
「て ~ よく出来たボコたちじゃんけえ」
感心しながら入ってきたのは、リンと朝市だった。
「美里ちゃん、直子ちゃん、よく来たじゃん。
ふたりの転校の手続きはもう済んでるだよ」
花子は朝市が学校に居てくれると思うと心強かった。
「朝市先生、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
ふたりに丁寧に挨拶されて、朝市は照れくさそうにお辞儀して返した。
「て ~ よく出来たボコたちじゃんねえ」
リンが繰り返し感心していると、吉平が得意げにうなずいた。
「ほりゃあ、俺の孫たちだから当たり前じゃん」
「また始まっと」
ふじが茶々を入れ、一同が大笑いしているところに、甚之介と武の徳丸親子がやって来た。
* * * * * * * * * *
「ごめんなって」
「武 … 徳丸さんもご無沙汰しております」
武のくせにいつの間にか鼻の下に髭なぞ生やしていた。
「おう、疎開してきただけ?
東京はえらく大変みたいじゃんな」
花子とひとしきり挨拶を交わした後、甚之介は台所の方へと足を運んだ。
「徳丸さん、また何の用で?」
ふじが訊ねた。
「今日はおまんとこのブドウ酒、全部引き取りに来ただ。
隠してるブドウ酒、全部だしちゃあ!」
甚之介から頭ごなしに言われた吉平は不満ありありの顔でうそぶいた。
「てっ、何で知ってるだ?」
「軍に供出しろ!」
甚之介が言うには、敵の潜水艦を捜す機械を作るのに、ブドウ酒の成分が必要なのだそうだ。
そんな理由を耳にして、吉平は鼻で嗤った。
「ブドウ酒で潜水艦を捜すだとお?!」
< てっ、ブドウ酒はそんな使い道もあったんですね? >
「この非国民があ!」
「ああ、供出すつのは当たり前じゃんけ!」
「さっさと渡せ!」
親子そろって、吉平を責め立てた。
* * * * * * * * * *
「渡せねえ!」
「お父!」
「あんたまたほんなこん言って!」
花子とふじが嗜めたが、吉平は聞かない。
「さっさと出さんと、おまんの息子の憲兵だって、捕まえに来るかも知れんよ」
リンの脅しも効果はなかった。
歳を取った吉平は、誰もが手を焼くほどの頑固者になっていた。
「決められた分は供出してるら!
残った分、自分で飲んで何処が悪いだ?
お国のため、お国のためって … 俺もお国の中のひとりじゃん」
「何を訳の分からんこん言ってるだ!」
業を煮やした甚之介が大声を上げたが、吉平は知らぬ顔で水瓶に腕を突っ込んだ。
「てっ?」
水瓶から取り出したのはブドウ酒のビンだった。
吉平は栓を抜き、おもむろにビンに口をつけてラッパ飲みした。
「あ ~ 美味え」
頭を抱える一同。
* * * * * * * * * *
「まだいっぱい隠してるずら?!」
「ああ、隠してるさ」
抜け抜けと答えた吉平は、甚之介の目の前でもう一度ブドウ酒のビンを呷った。
「あ ~ 美味え」
「やめちゃ!」
しかし吉平が素直に止めるわけがなかった。
「やめちゃあ!!」
< このふたりの関係は、戦時下でもちっとも変わりませんね。
… ごきげんよう、さようなら >


※甚之介が言っていることはあながちウソではなかったようです。
戦時中のワイン造りの奨励
< シンガポールに行っていた醍醐が帰って来ました >
「醍醐さん、帰っていらしたのね」
花子が亜矢子が無事に戻ったことを喜んだのも束の間だった。
「醍醐さん?!」
玄関先で佇む亜矢子は青ざめた顔で、花子を見るなり、その目をうるませた。
「はなさん … 」
「醍醐さん、どうしたの?」
* * * * * * * * * *
「 … ごめんなさい。
突然、泣き出したりしてしまって … はなさんの顔見たら、何だか安心して」
亜矢子は涙を拭った。
「いつお帰りになってたの?」
「少し前に … 昭南市は戦闘が終わっていたから安全だったわ。
結局、戦地らしい戦地は見ずに帰って来たの」
まるで何かに怯えているかのように、小声でうつむき加減に話す亜矢子にいつもの明るさの欠片もなかった。
「 … でも、戦争とはどういうものなのか、少し分かった気がするわ。
死って遠くにあると思っていたけれど、すぐ隣にあるものなのね」
* * * * * * * * * *
数日後、梶原が聡文堂を休業するという報告のため村岡家を訪れた。
「もちろん、再開したあかつきはまた原稿お願いします」
「はい是非 … 英治さんも青凛社を再開するつもりですから、印刷の方もぜひお願いします」
先はまったく見えない毎日だったが、梶原も花子たちも希望は捨ててはいなかった。
「あの … 醍醐さんとはお会いになりましたか?」
「そういえば日本に帰って来たようだね ~ 連絡あった?」
「ええ、先日いらして … 」
梶原は何か話を聞いたのか訊ねた。
花子の脳裏に亜矢子の虚ろな顔が浮かんだ。
「 … 余り話したくないようでした」
「そう … 」
「あんなに明るかった醍醐さんから表情がなくなっていて … 向こうで何があったんでしょう?」
* * * * * * * * * *
「ご家族から伺っただけなんだが、帰りの船で随分怖い思いをしたらしい」
梶原の話では、亜矢子が便乗していた船団がアメリカの潜水艦の魚雷攻撃に遭って、かなり沈められたようだった。
「沈んだ船の乗客は海に投げ出された。
だが、いつ次の攻撃が来るか分からない状況で、とても船を止めて救うことはできない … 」
亜矢子が乗っていた船は … 海に漂いながら、必死に助けを求める人々を見捨てて、逃げるしかなかったのだ。
「醍醐君、帰国してから部屋に閉じこもってしまって、誰とも会おうとしないそうだ」
花子はそんな状態の中、会いに来てくれた亜矢子に対して何もできなかった自分がはがゆかった。
< 醍醐から笑顔を奪ってしまうほどの戦争の悲惨さを、花子も初めて身近に感じたのでした >
* * * * * * * * * *
そんなある日、甲府から吉平がやって来た。
「おお、美里、直子 ~ ぐっどあふたぬ~ん!」
縁側でビンに入れた玄米を棒でついていた孫たちに向かって、いつもの調子で挨拶した吉平を花子は慌てて諌めた。
「ぐっとあふたぬ~ん、お祖父やん」
「直子ちゃん、英語は使っちゃダメ」
年長の美里も直子に注意したが、肝心の吉平は首をひねっていた。
「お父、とにかくよく来てくれたね」
花子に歓迎された吉平は庭の片隅を耕して作った僅かばかりの畑に目をやった。
「ほう、えらく立派な畑作ったじゃん ~ 草取りけ、ああ、精が出るな」
花子は雑草を手にしながら、気まずそうに答えた。
「あっ、ううん違うの … 今夜のお汁の具を探してて」
「えっ?!
話には聞いてたけんど、東京はほんなに食うもんに困ってるだか?」
「うん、配給の量も減ってきてしまって … 」
花子は顔を曇らせたが、吉平はうれしそうに笑った。
「ほれじゃあ、やっぱし持ってきてよかったじゃん」
* * * * * * * * * *
縁側に腰を下ろした吉平は懐から小袋を取り出してみせた。
「ほれ、米じゃ」
それもひとつだけでなく小袋は手品のように次から次へと現れた。
「白いお米だ!」
袋からこぼれた白米を見て直子が声を上げた。
「こんなにたくさん?!」
花子が驚いていると、今度は同じように小分けにして紐で結ばれた味噌が出てきた。
「味噌じゃ、ほれっほれっ」
* * * * * * * * * *
「お父?!」
その後、吉平は花子と英治を伴ってかよの店を訪れた。
「ふたりとも元気そうじゃんけ ~ 」
カウンターの中でせっせと働く、かよとももの姿を見て安堵したようだ。
「お陰様でなんとかやってる。
甲府は変わりない? お母は元気にしてる?」
ももの矢継ぎ早の質問にも笑顔でうなずいた。
「あっちは皆元気だ」
* * * * * * * * * *
「 … お父がね、お米と味噌を持ってきてくれたの」
花子が小声でかよに話すと、英治がそっと紙袋をカウンターに置いた。
「て ~ こんなにもらっていいの?」
「遠慮なん、しなんでいい。
ほれから、こっちはうちで造ったブドウ酒じゃん」
吉平の懐はどれだけ物が入るのだろう … 新聞紙で包んだビンを取り出した。
「えっ、お父、ブドウ酒なんて造りはじめたの?」
「声がでけえっ」
* * * * * * * * * *
ももの声に反応したかのように、客席を占めていた軍人たちが一斉に席を立った。
吉平は慌ててビンを隠そうとしたが … 取り越し苦労だった。
「かよさん、ごちそうさん」
食事を終えた軍人たちはそのまま店を出て行ってしまった。
* * * * * * * * * *
空いたテーブル席に移りながら吉平は言った。
「かよ、コップくりょう ~ このブドウ酒、英治君にも飲んでもれえてえだ」
「お父、そのブドウ酒、本当に飲めるの?」
花子は疑わしそうな顔で覗きこんだ。
「バカにしてもらっちゃあ困る … 徳丸んとこにゃあ負けんだぞ」
「それは楽しみです」
英治は吉平につき合って隣の席に座っている。
「いいけ、かよ … ブドウ酒、あんな軍人なんぞに出すんじゃねえぞ」
コップを運んできたかよに吉平は釘を刺した。
「え、なんで?」
「あいつら、甲州のブドウ酒、根こそぎ持っていって … どうせ夜な夜な宴会でもやってるずら」
「そんなこと軍人さんに失礼だよ。
お国のために働いてくださってるのに」
かよは反論したが、吉平は譲らない。
「ほりゃあ、俺たちも一緒じゃん」
「お父は何も分かってない!」
かよには珍しく声を荒げた。
「ふたりとも落ち着いて!」
ふたりの間にももが割って入り、英治はブドウ酒の栓を抜いて吉平に勧めた。
「さあ、お義父さん飲みましょう」
かよはプイッとカウンターに戻ってしまった。
「うん、これは美味いですね ~ 」
英治にぶどう酒を褒められ、吉平はご機嫌だ。
* * * * * * * * * *
「ああ、そうだ … 今日は、かよとももに相談があって来たの」
花子は思い出したように言った。
「相談?」
「お父がね、甲府に疎開して来ないかって」
「甲府には食いもんはある … 東京から疎開してきている人もいる。
食べ盛りのボコにためにも、皆で甲府に疎開してこうし」
花子は美里を甲府で預かってもらおうと思っていることをももに伝えた。
「8月には生徒たちの集団疎開の計画もあるみたいだから … 」
「そう … お姉やんはどうするの?」
ももに訊かれて、花子は自分は東京に残ると言った。
「英治さんも仕事があって東京を離れる訳にはいかないし、うちには大切な本もたくさんあるし …
かよはどうする?」
「私はいかない」
考える間もなくかよは答えた。
「何でだ ~ 大した配給もねえに、店やっていくのも苦しいら?」
確かに吉平の言う通りなのだが … かよにはこの店を離れたくない理由があった。
「私にとって、この店は命より大切なもんだ。
物不足で大変だけど、何とかやってく」
それを聞いて吉平も口をつぐんでしまった。
「私は東京に残って、この店を守る」
肉親であっても口を挟む余地がない、かよの固い決意だった。
* * * * * * * * * *
結局、甲府には、美里と直子、子供たちだけを疎開させることになり、花子がふたりを実家まで預けに連れてきた。
「お祖父、お祖母やん来たよ ~ 」
元気いっぱいで家の中に駆け込んできた直子を、ふじと吉平は喜び勇んで出迎えた。
「待ってただよ ~ 」
「ごきげんよう」
< 美里と直子が安東家にやって来るのははじめてです >
「さあさあ、上がれし、上がれし」
ふじが子供たちに家に上がるように促した。
「 … ふたりとも、その前に」
花子はふたりに目で合図した。
「はいっ!
今日からお世話になります ~ よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
しっかりと約束してきたのだろう、美里だけでなく直子も一緒に、ふじと吉平に向かってきちんと頭を下げて挨拶した。
* * * * * * * * * *
「て ~ よく出来たボコたちじゃんけえ」
感心しながら入ってきたのは、リンと朝市だった。
「美里ちゃん、直子ちゃん、よく来たじゃん。
ふたりの転校の手続きはもう済んでるだよ」
花子は朝市が学校に居てくれると思うと心強かった。
「朝市先生、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
ふたりに丁寧に挨拶されて、朝市は照れくさそうにお辞儀して返した。
「て ~ よく出来たボコたちじゃんねえ」
リンが繰り返し感心していると、吉平が得意げにうなずいた。
「ほりゃあ、俺の孫たちだから当たり前じゃん」
「また始まっと」
ふじが茶々を入れ、一同が大笑いしているところに、甚之介と武の徳丸親子がやって来た。
* * * * * * * * * *
「ごめんなって」
「武 … 徳丸さんもご無沙汰しております」
武のくせにいつの間にか鼻の下に髭なぞ生やしていた。
「おう、疎開してきただけ?
東京はえらく大変みたいじゃんな」
花子とひとしきり挨拶を交わした後、甚之介は台所の方へと足を運んだ。
「徳丸さん、また何の用で?」
ふじが訊ねた。
「今日はおまんとこのブドウ酒、全部引き取りに来ただ。
隠してるブドウ酒、全部だしちゃあ!」
甚之介から頭ごなしに言われた吉平は不満ありありの顔でうそぶいた。
「てっ、何で知ってるだ?」
「軍に供出しろ!」
甚之介が言うには、敵の潜水艦を捜す機械を作るのに、ブドウ酒の成分が必要なのだそうだ。
そんな理由を耳にして、吉平は鼻で嗤った。
「ブドウ酒で潜水艦を捜すだとお?!」
< てっ、ブドウ酒はそんな使い道もあったんですね? >
「この非国民があ!」
「ああ、供出すつのは当たり前じゃんけ!」
「さっさと渡せ!」
親子そろって、吉平を責め立てた。
* * * * * * * * * *
「渡せねえ!」
「お父!」
「あんたまたほんなこん言って!」
花子とふじが嗜めたが、吉平は聞かない。
「さっさと出さんと、おまんの息子の憲兵だって、捕まえに来るかも知れんよ」
リンの脅しも効果はなかった。
歳を取った吉平は、誰もが手を焼くほどの頑固者になっていた。
「決められた分は供出してるら!
残った分、自分で飲んで何処が悪いだ?
お国のため、お国のためって … 俺もお国の中のひとりじゃん」
「何を訳の分からんこん言ってるだ!」
業を煮やした甚之介が大声を上げたが、吉平は知らぬ顔で水瓶に腕を突っ込んだ。
「てっ?」
水瓶から取り出したのはブドウ酒のビンだった。
吉平は栓を抜き、おもむろにビンに口をつけてラッパ飲みした。
「あ ~ 美味え」
頭を抱える一同。
* * * * * * * * * *
「まだいっぱい隠してるずら?!」
「ああ、隠してるさ」
抜け抜けと答えた吉平は、甚之介の目の前でもう一度ブドウ酒のビンを呷った。
「あ ~ 美味え」
「やめちゃ!」
しかし吉平が素直に止めるわけがなかった。
「やめちゃあ!!」
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戦時中のワイン造りの奨励