2014年06月27日 (金) | 編集 |
第77話
はなをカフェー・ドミンゴに呼び出したのは蓮子の夫、嘉納伝助だった。
「 … 蓮子さんがそうおっしゃったんですか?」
「今日、こん店で『はなちゃん』と会うち … 」
蓮子はそう言って、上京したらしい。
< なんとその頃、蓮子は龍一と会っていたのです >
路地裏の屋台の飲み屋、ふたりは安酒を注いだグラスのふちを合わせた。
「乾杯 … 」
* * * * * * * * * *
様子がおかしいはなのことを伝助は訝しげな顔で見ていた。
はなは肚をくくった … 何とかこの場を言い逃れなければと。
「ああ、あれそういえば今日だったわ ~
確かに蓮子さんと約束しました。
明日と勘違いしていたけど、金曜日の約束だから … 今日です、今日です!」
いかにも見え透いたはなの三文芝居だった。
もう少し上手に立ち振る舞えないかと自分でも情けなかった。
「ばってん、蓮子は何ばしようとな?」
伝助は、はなのグラスにサイダーを注ぎながら訊ねた。
「 … あっ、きっと蓮子さん、本屋さんです!
蓮子さん本がお好きだから、本屋さんに入ると時間を忘れて本を読みふけってしまうんです」
声が裏返ったはなの言い訳を聞きながら、伝助は自分のグラスにもサイダーを注ぎ、そして口に含んだ。
< はなは心臓がバクバクしていました。
こんな誤魔化しが通るのでしょうか? >
カラカラののどを潤すためにサイダーをごくりと飲んだ。
< … 何しろ相手は、石炭王の嘉納伝助です >
* * * * * * * * * *
「 … サイダー、お好きなんですか?」
何故だか自分でも分からないが、全然関係ないことを口走っていた。
すると、伝助は穏やかな顔になった。
「サイダーは夢の水たい」
「えっ?」
伝助は手招きすると、テーブルの中央ではなに自分の顔を近づけた。
「はじめて飲んだ時に、世の中にはこげな美味いもんがあるかと … 腰抜かしそうになった」
真顔で声を潜めて言うと、さも愉快そうに笑いはじめた。
はなも何となく緊張が解けて、笑顔を見せた。
「あ、私もそうです」
伝助はグラスに残ったサイダーを飲み干すと、席を立った。
「勘定してくれ!」
「えっ、もうお帰りになるんですか?」
「 … 俺は、あいつと本の話はできん。
あんたが話し相手になっちゃって」
そう言い残して、颯爽と引き揚げていった。
「あ、ありがとうございました」
第一印象と違って、はなは意外にも気さくな伝助に好感を抱いていた。
* * * * * * * * * *
「 … 屋台なんか連れてきて、怒られるかと思いましたよ」
「あら、あなたがいつも行くお店に連れてって欲しいと頼んだのは、私だもの。
このおでんもお酒も美味しいわ」
龍一の言葉に、蓮子はまったく気にしていないような口ぶりで答えた。
「お替りいただけますか?」
蓮子がそう言うと、店の主人は苦笑いをして、龍一に向って顎で合図した。
笑い出した龍一は、蓮子の顔を見た。
「『いただけますか』なんて客は、ここにはいませんよ」
「 … じゃあ、何と言うの?」
困惑顔で尋ねた蓮子。
龍一は自分のコップ酒を飲み干し、主人に向かってひと言。
「おやじ、冷!」
「はいよ!」
威勢よく返事した主人は、龍一の空になったコップに一升瓶から直接酒を注いだ。
「 … 世の中には私の知らないことがたくさんあるのね」
こんな他愛のないことに感動している蓮子。
龍一はその素直な心と美しい横顔に見惚れていた。
* * * * * * * * * *
蓮子は龍一の視線を感じた。
「 … 何か?」
すると、龍一は少し照れたように、傍らにあった原稿用紙の束を手に取った。
「まさか、1週間で描き上げてもらえるとは … 思いもしませんでしたよ」
『音楽家の妻』
龍一が蓮子に依頼した芝居の脚本だった。
「 … お気に召して?」
「あなたの激情がひしひしと伝わってきました」
自信があったのだろう、蓮子は満足げにうなずいた。
「 … だが、後半は変えるべきですね」
「えっ、どうしてよ?」
「なかなかいい脚本ですが、最高にいい脚本ではない」
蓮子の顔に不満の色が浮かんだ。
「 … 今のままだと、主人の居る女が道ならぬ恋に溺れて心中するという、もう何100回と書き古された話で終わってしまう」
「私、一度書いたものは、推敲しない主義なの」
龍一の指摘が的を射たものだとしても、蓮子のプライドが推敲することを許さなかった。
「白蓮の最高傑作になりそうなんだ!
… そんな主義は捨ててください」
食い下がる龍一。
ムッとした蓮子は、自分のコップ酒を飲み干すと、主人に向かって叫んだ。
「 … おやじ、冷!」
「はいよ!」
主人はニコリ笑うと、蓮子のコップに酒を注いだ。
「ほら、私でも注文できたわ!」
得意顔ではしゃいでいる蓮子に隆一は追い討ちをかけるように言った。
「じゃあ、その調子で推敲にも挑戦してください」
「 … 強情な人」
そう容易く人の意見を受け入れるのはしゃくだ … 龍一を睨みつけてソッポを向いた。
「そっちこそ」
子供じみたやり取りに、ふたりは思わず吹き出してしまった。
そんな様子を、少し離れた柱の陰から、冷ややかな目でじっと見つめる吉太郎の姿があった。
* * * * * * * * * *
長屋に戻ったはなは、伝助の土産物を前にして考え込んでいた。
一体、蓮子は何処へ行ってしまったのだろう?
そうしていると、戸を叩く音がした。
「 … ごめんください」
蓮子の声だった。
はなは慌てて迎えに出た。
「 … 蓮様?!」
「はなちゃん、ごきげんよう」
いつもと何ひとつ変わらない蓮子の笑顔だった。
「 … ごきげんよう」
長屋に招き入れたが、不安が顔に出てしまった。
「突然来て、びっくりさせようと思ったのに … あんまり驚いてくれないのね?」
少し拍子抜けして、足を踏み入れた蓮子は、ちゃぶ台の上に置いてある土産物を見て、理由を察したようだ。
「はなちゃん、主人と会ったの?」
「ええ …
心配したわ、何処にいたの?」
「 … ちょっとね、お友達と会っていたの」
「お友達?」
ウソをついてまで会う友達が蓮子に居るはずがない … はなは尚更不安になった。
* * * * * * * * * *
その時、閉めたばかりの戸が開いて、カフェーに現れた時と同じ鳥打帽に背広姿の吉太郎が入ってきた。
「邪魔するぞ」
「兄やん?!」
その男が吉太郎だと分かると、蓮子は懐かしそうに声を上げた。
「まあ、お久しぶり!
ごきげんよう、吉太郎さん」
姿格好だけでなく、態度や身のこなしもあの日と同じ吉太郎は挨拶もなく感情を抑えた声で切り出した。
「蓮子さん … もう、あの男とは関わらない方がいい」
「兄やん、いきなり何でえ ~ あの男って?」
「 … 宮本龍一だ」
「吉太郎さん、どうして?」
「あなたとあの男じゃ、住む世界が違う!」
吉太郎が少し声を荒げた。
「吉太郎さんは、宮本さんのことをそんなによくご存じなんですか?」
頭ごなしに止めても従う蓮子ではない。
「 … とにかく、もう会わないでください」
そう言って、吉太郎は長屋を出て行ってしまった。
「あ、兄やん … どうして?」
* * * * * * * * * *
「蓮様、私に会うってご主人にウソをついて、その男の人と会っていたの?」
「ええ、宮本さんは演劇をやっていて、脚本を頼まれたの。
それだけのお友達よ」
蓮子は悪びれることなく話したが、はなの不安は消えない。
「その人のことは嫌いじゃないわ ~ 今日もすごく楽しかった」
「あんな立派なご主人がいらっしゃるのに、何を言っているの?
石炭王なんて、どれだけ威張ってる方かと思ったら、気さくでいい方だったわ」
「はなちゃんが褒めるなんて意外だわ」
蓮子は本気で驚いていた。
「じゃあ、少しはいいところもあるのかしらね … 」
皮肉にも聞こえる、意味深な物言いだった。
「蓮様 … 」
はなは改めて蓮子に釘をさすように言った。
「とにかく、道ならぬ恋だけはしてはいけません」
余りにも深刻なかおのはなを見て、蓮子はおかしくなってしまった。
「考え過ぎよ!
そんな愚かなことはしないわ」
笑っている蓮子に後ろめたさなど微塵も感じられなかった。
* * * * * * * * * *
「 … 私のことより、はなちゃんこそ、村岡さんとの恋は順調?」
英治の名前が出た途端、はなは口をつぐんで、顔を強張らせてしまった。
「どうしたの?」
「 … 私、あれから思いを伝えて … 」
「まあ ~ 」
「その日のうちに、いろいろあって … そして、次の日に …
『忘れてください』って言われたの」
「えっ?!」
蓮子の顔色が変わった。
「つまり … 振られたの」
「えっ?!」
蓮子は我が耳を疑った。
はなと英治が相思相愛だということをいち早く見抜いて、ふたりに気づかせたのは蓮子だった。
「 … どうして?!」
「どうして … こっちが聞きたいわ。
今、私の胸には、こんなに大きな穴が開いているの」
はなは、泣き出しそうな顔で胸の前に両掌で円を作ってみせた。
「はなちゃん … 」
そんなはなの姿を見て、蓮子はあることを決意したのだった。
* * * * * * * * * *
「若社長、お客様です」
社員に案内されて、村岡印刷の重役室に入ってきたのは蓮子だった。
「ごきげんよう」
「 … 蓮子さん?!」
蓮子は、部屋に居た郁弥と平祐にも丁寧に挨拶した。
初対面の平祐は蓮子の気品ある美しさに息を呑んだ。
「村岡さん」
蓮子に呼ばれて、同じ名字の3人が返事をした。
「こちらの村岡さんと、ふたりで話がしたいのですが、よろしいですか?」
蓮子は英治を指名して、ふたりに伺いを立てた。
「 … 本のことでご相談をあって」
「どうぞどうぞ」
郁弥が愛想よく、応接席へと誘導した。
「白蓮さん、次の歌集を出す時には是非弊社で刷ってください」
「白蓮?!」
『踏繪』の愛読者である平祐は、目の前にいる女性が白蓮だと知って驚愕した。
「あなたが … 」
「お父さん、見惚れてないで」
郁弥に促されて、名残惜しそうに部屋から出て行った。
* * * * * * * * * *
「 … 単刀直入におうかがいします。
『忘れてください』なんて、 どうしておしゃったの?」
あまりにも直球の質問に英治の顔からす~っと笑みが消えた。
「はなちゃん、今胸にこんなに大きな穴が開いてるそうです」
蓮子ははながやったように胸の前で両掌で円を作って見せた。
「いいんですか、このままで?」
黙ったままの英治にイラついたのか、少しきつい言い方になった。
「はなちゃんを傷つけたままでいいの?」
* * * * * * * * * *
「 … これ以上、傷つける訳にはいかないんです」
英治は、ようやく重たい口を開いた。
「あなた、はなちゃんに何か隠してることがあるんじゃない?」
その悲しげな目を見て、蓮子はそう思ったのだ。
英治は決して答えはしなかったが、蓮子は確信を持った。
「ちゃんと向き合わないで逃げるなんて卑怯よ。
… はなちゃんのためにこぴっと向き合ってあげて」
* * * * * * * * * *
「 … この挿絵、本当に素敵です」
郁弥が届けた『王子と乞食』の頁の刷上り見本を手にしたはなは、これ以上ないほどの笑顔をみせた。
決して達者な絵ではないが、描いた人の優しさが伝わってくるようで、この挿絵がたまらなく好きだった。
「これ、誰が描いたと思います?」
「え?
… 無名の絵描きさんですか?」
「まあ、そんなところです」
郁弥は意味ありげに笑っている。
その時、電話が鳴り、はなは梶原に言われて、受話器を取った。
* * * * * * * * * *
「あっ、花子さんですか … 村岡です」
電話の主は英治だった。
いきなりはなが出たので、声が緊張しているように聞こえた。
「はい … ご用件は?」
はなは動揺していることを悟られないようにわざと事務的に訊ねた。
「今夜、仕事が終わってから会えませんか?」
早鐘のように激しく高鳴る鼓動を抑えて、懸命に平静を装った。
「 … お話なら今伺います。
何でしょうか?」
「いえ、会ってお話ししたいんです … 今夜、ご都合悪いですか?」
これ以上、つれない演技を続けることは出来なかった。
「いえ … 」
「では、6時にカフェーで」
「 … 分かりました」
* * * * * * * * * *
電話は切れたが、はなは受話器を持ったままぼんやりと佇んでいた。
「電話、終わったんじゃないの?」
梶原に声を掛けられて、ハッと我に戻った。
「あっ … すいません」
< 再び、はなの心臓はパルピテーションの嵐を起こしていました。
… ごきげんよう、さようなら >
はなをカフェー・ドミンゴに呼び出したのは蓮子の夫、嘉納伝助だった。
「 … 蓮子さんがそうおっしゃったんですか?」
「今日、こん店で『はなちゃん』と会うち … 」
蓮子はそう言って、上京したらしい。
< なんとその頃、蓮子は龍一と会っていたのです >
路地裏の屋台の飲み屋、ふたりは安酒を注いだグラスのふちを合わせた。
「乾杯 … 」
* * * * * * * * * *
様子がおかしいはなのことを伝助は訝しげな顔で見ていた。
はなは肚をくくった … 何とかこの場を言い逃れなければと。
「ああ、あれそういえば今日だったわ ~
確かに蓮子さんと約束しました。
明日と勘違いしていたけど、金曜日の約束だから … 今日です、今日です!」
いかにも見え透いたはなの三文芝居だった。
もう少し上手に立ち振る舞えないかと自分でも情けなかった。
「ばってん、蓮子は何ばしようとな?」
伝助は、はなのグラスにサイダーを注ぎながら訊ねた。
「 … あっ、きっと蓮子さん、本屋さんです!
蓮子さん本がお好きだから、本屋さんに入ると時間を忘れて本を読みふけってしまうんです」
声が裏返ったはなの言い訳を聞きながら、伝助は自分のグラスにもサイダーを注ぎ、そして口に含んだ。
< はなは心臓がバクバクしていました。
こんな誤魔化しが通るのでしょうか? >
カラカラののどを潤すためにサイダーをごくりと飲んだ。
< … 何しろ相手は、石炭王の嘉納伝助です >
* * * * * * * * * *
「 … サイダー、お好きなんですか?」
何故だか自分でも分からないが、全然関係ないことを口走っていた。
すると、伝助は穏やかな顔になった。
「サイダーは夢の水たい」
「えっ?」
伝助は手招きすると、テーブルの中央ではなに自分の顔を近づけた。
「はじめて飲んだ時に、世の中にはこげな美味いもんがあるかと … 腰抜かしそうになった」
真顔で声を潜めて言うと、さも愉快そうに笑いはじめた。
はなも何となく緊張が解けて、笑顔を見せた。
「あ、私もそうです」
伝助はグラスに残ったサイダーを飲み干すと、席を立った。
「勘定してくれ!」
「えっ、もうお帰りになるんですか?」
「 … 俺は、あいつと本の話はできん。
あんたが話し相手になっちゃって」
そう言い残して、颯爽と引き揚げていった。
「あ、ありがとうございました」
第一印象と違って、はなは意外にも気さくな伝助に好感を抱いていた。
* * * * * * * * * *
「 … 屋台なんか連れてきて、怒られるかと思いましたよ」
「あら、あなたがいつも行くお店に連れてって欲しいと頼んだのは、私だもの。
このおでんもお酒も美味しいわ」
龍一の言葉に、蓮子はまったく気にしていないような口ぶりで答えた。
「お替りいただけますか?」
蓮子がそう言うと、店の主人は苦笑いをして、龍一に向って顎で合図した。
笑い出した龍一は、蓮子の顔を見た。
「『いただけますか』なんて客は、ここにはいませんよ」
「 … じゃあ、何と言うの?」
困惑顔で尋ねた蓮子。
龍一は自分のコップ酒を飲み干し、主人に向かってひと言。
「おやじ、冷!」
「はいよ!」
威勢よく返事した主人は、龍一の空になったコップに一升瓶から直接酒を注いだ。
「 … 世の中には私の知らないことがたくさんあるのね」
こんな他愛のないことに感動している蓮子。
龍一はその素直な心と美しい横顔に見惚れていた。
* * * * * * * * * *
蓮子は龍一の視線を感じた。
「 … 何か?」
すると、龍一は少し照れたように、傍らにあった原稿用紙の束を手に取った。
「まさか、1週間で描き上げてもらえるとは … 思いもしませんでしたよ」
『音楽家の妻』
龍一が蓮子に依頼した芝居の脚本だった。
「 … お気に召して?」
「あなたの激情がひしひしと伝わってきました」
自信があったのだろう、蓮子は満足げにうなずいた。
「 … だが、後半は変えるべきですね」
「えっ、どうしてよ?」
「なかなかいい脚本ですが、最高にいい脚本ではない」
蓮子の顔に不満の色が浮かんだ。
「 … 今のままだと、主人の居る女が道ならぬ恋に溺れて心中するという、もう何100回と書き古された話で終わってしまう」
「私、一度書いたものは、推敲しない主義なの」
龍一の指摘が的を射たものだとしても、蓮子のプライドが推敲することを許さなかった。
「白蓮の最高傑作になりそうなんだ!
… そんな主義は捨ててください」
食い下がる龍一。
ムッとした蓮子は、自分のコップ酒を飲み干すと、主人に向かって叫んだ。
「 … おやじ、冷!」
「はいよ!」
主人はニコリ笑うと、蓮子のコップに酒を注いだ。
「ほら、私でも注文できたわ!」
得意顔ではしゃいでいる蓮子に隆一は追い討ちをかけるように言った。
「じゃあ、その調子で推敲にも挑戦してください」
「 … 強情な人」
そう容易く人の意見を受け入れるのはしゃくだ … 龍一を睨みつけてソッポを向いた。
「そっちこそ」
子供じみたやり取りに、ふたりは思わず吹き出してしまった。
そんな様子を、少し離れた柱の陰から、冷ややかな目でじっと見つめる吉太郎の姿があった。
* * * * * * * * * *
長屋に戻ったはなは、伝助の土産物を前にして考え込んでいた。
一体、蓮子は何処へ行ってしまったのだろう?
そうしていると、戸を叩く音がした。
「 … ごめんください」
蓮子の声だった。
はなは慌てて迎えに出た。
「 … 蓮様?!」
「はなちゃん、ごきげんよう」
いつもと何ひとつ変わらない蓮子の笑顔だった。
「 … ごきげんよう」
長屋に招き入れたが、不安が顔に出てしまった。
「突然来て、びっくりさせようと思ったのに … あんまり驚いてくれないのね?」
少し拍子抜けして、足を踏み入れた蓮子は、ちゃぶ台の上に置いてある土産物を見て、理由を察したようだ。
「はなちゃん、主人と会ったの?」
「ええ …
心配したわ、何処にいたの?」
「 … ちょっとね、お友達と会っていたの」
「お友達?」
ウソをついてまで会う友達が蓮子に居るはずがない … はなは尚更不安になった。
* * * * * * * * * *
その時、閉めたばかりの戸が開いて、カフェーに現れた時と同じ鳥打帽に背広姿の吉太郎が入ってきた。
「邪魔するぞ」
「兄やん?!」
その男が吉太郎だと分かると、蓮子は懐かしそうに声を上げた。
「まあ、お久しぶり!
ごきげんよう、吉太郎さん」
姿格好だけでなく、態度や身のこなしもあの日と同じ吉太郎は挨拶もなく感情を抑えた声で切り出した。
「蓮子さん … もう、あの男とは関わらない方がいい」
「兄やん、いきなり何でえ ~ あの男って?」
「 … 宮本龍一だ」
「吉太郎さん、どうして?」
「あなたとあの男じゃ、住む世界が違う!」
吉太郎が少し声を荒げた。
「吉太郎さんは、宮本さんのことをそんなによくご存じなんですか?」
頭ごなしに止めても従う蓮子ではない。
「 … とにかく、もう会わないでください」
そう言って、吉太郎は長屋を出て行ってしまった。
「あ、兄やん … どうして?」
* * * * * * * * * *
「蓮様、私に会うってご主人にウソをついて、その男の人と会っていたの?」
「ええ、宮本さんは演劇をやっていて、脚本を頼まれたの。
それだけのお友達よ」
蓮子は悪びれることなく話したが、はなの不安は消えない。
「その人のことは嫌いじゃないわ ~ 今日もすごく楽しかった」
「あんな立派なご主人がいらっしゃるのに、何を言っているの?
石炭王なんて、どれだけ威張ってる方かと思ったら、気さくでいい方だったわ」
「はなちゃんが褒めるなんて意外だわ」
蓮子は本気で驚いていた。
「じゃあ、少しはいいところもあるのかしらね … 」
皮肉にも聞こえる、意味深な物言いだった。
「蓮様 … 」
はなは改めて蓮子に釘をさすように言った。
「とにかく、道ならぬ恋だけはしてはいけません」
余りにも深刻なかおのはなを見て、蓮子はおかしくなってしまった。
「考え過ぎよ!
そんな愚かなことはしないわ」
笑っている蓮子に後ろめたさなど微塵も感じられなかった。
* * * * * * * * * *
「 … 私のことより、はなちゃんこそ、村岡さんとの恋は順調?」
英治の名前が出た途端、はなは口をつぐんで、顔を強張らせてしまった。
「どうしたの?」
「 … 私、あれから思いを伝えて … 」
「まあ ~ 」
「その日のうちに、いろいろあって … そして、次の日に …
『忘れてください』って言われたの」
「えっ?!」
蓮子の顔色が変わった。
「つまり … 振られたの」
「えっ?!」
蓮子は我が耳を疑った。
はなと英治が相思相愛だということをいち早く見抜いて、ふたりに気づかせたのは蓮子だった。
「 … どうして?!」
「どうして … こっちが聞きたいわ。
今、私の胸には、こんなに大きな穴が開いているの」
はなは、泣き出しそうな顔で胸の前に両掌で円を作ってみせた。
「はなちゃん … 」
そんなはなの姿を見て、蓮子はあることを決意したのだった。
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「若社長、お客様です」
社員に案内されて、村岡印刷の重役室に入ってきたのは蓮子だった。
「ごきげんよう」
「 … 蓮子さん?!」
蓮子は、部屋に居た郁弥と平祐にも丁寧に挨拶した。
初対面の平祐は蓮子の気品ある美しさに息を呑んだ。
「村岡さん」
蓮子に呼ばれて、同じ名字の3人が返事をした。
「こちらの村岡さんと、ふたりで話がしたいのですが、よろしいですか?」
蓮子は英治を指名して、ふたりに伺いを立てた。
「 … 本のことでご相談をあって」
「どうぞどうぞ」
郁弥が愛想よく、応接席へと誘導した。
「白蓮さん、次の歌集を出す時には是非弊社で刷ってください」
「白蓮?!」
『踏繪』の愛読者である平祐は、目の前にいる女性が白蓮だと知って驚愕した。
「あなたが … 」
「お父さん、見惚れてないで」
郁弥に促されて、名残惜しそうに部屋から出て行った。
* * * * * * * * * *
「 … 単刀直入におうかがいします。
『忘れてください』なんて、 どうしておしゃったの?」
あまりにも直球の質問に英治の顔からす~っと笑みが消えた。
「はなちゃん、今胸にこんなに大きな穴が開いてるそうです」
蓮子ははながやったように胸の前で両掌で円を作って見せた。
「いいんですか、このままで?」
黙ったままの英治にイラついたのか、少しきつい言い方になった。
「はなちゃんを傷つけたままでいいの?」
* * * * * * * * * *
「 … これ以上、傷つける訳にはいかないんです」
英治は、ようやく重たい口を開いた。
「あなた、はなちゃんに何か隠してることがあるんじゃない?」
その悲しげな目を見て、蓮子はそう思ったのだ。
英治は決して答えはしなかったが、蓮子は確信を持った。
「ちゃんと向き合わないで逃げるなんて卑怯よ。
… はなちゃんのためにこぴっと向き合ってあげて」
* * * * * * * * * *
「 … この挿絵、本当に素敵です」
郁弥が届けた『王子と乞食』の頁の刷上り見本を手にしたはなは、これ以上ないほどの笑顔をみせた。
決して達者な絵ではないが、描いた人の優しさが伝わってくるようで、この挿絵がたまらなく好きだった。
「これ、誰が描いたと思います?」
「え?
… 無名の絵描きさんですか?」
「まあ、そんなところです」
郁弥は意味ありげに笑っている。
その時、電話が鳴り、はなは梶原に言われて、受話器を取った。
* * * * * * * * * *
「あっ、花子さんですか … 村岡です」
電話の主は英治だった。
いきなりはなが出たので、声が緊張しているように聞こえた。
「はい … ご用件は?」
はなは動揺していることを悟られないようにわざと事務的に訊ねた。
「今夜、仕事が終わってから会えませんか?」
早鐘のように激しく高鳴る鼓動を抑えて、懸命に平静を装った。
「 … お話なら今伺います。
何でしょうか?」
「いえ、会ってお話ししたいんです … 今夜、ご都合悪いですか?」
これ以上、つれない演技を続けることは出来なかった。
「いえ … 」
「では、6時にカフェーで」
「 … 分かりました」
* * * * * * * * * *
電話は切れたが、はなは受話器を持ったままぼんやりと佇んでいた。
「電話、終わったんじゃないの?」
梶原に声を掛けられて、ハッと我に戻った。
「あっ … すいません」
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