2014年08月05日 (火) | 編集 |
第110回
かよが働きはじめた屋台に蓮子がふらりとひとりでやって来た。
「ひょっとして家出でもしてきたですか ~ まさかですよね?」
冗談半分で訊ねたかよだったが、蓮子から返ってきた言葉は …
「その、まさかなの … 」
「てっ?!」
「私、今夜は帰りたくない … 」
ただ事ではなかった。
主婦になった蓮子に、一体何があったのだろう?
* * * * * * * * * *
「ねえ、かよちゃん … 私って、そんなにしゃべるの遅い?」
蓮子から訊かれて、かよはピンときた。
「ああ、お姑さんに言われたですか?」
「私って、そんなに遅いかしら?」
< 確かに早いとは言えませんね … >
「これでも精一杯急いでやっているのよ ~ お掃除も、お炊事も、お洗濯も」
口をとがらせた蓮子をかよは宥めた。
「大丈夫、家事は慣れです。
そのうち出来るようになりますよ」
「そう?」
不安げな顔で見つめた蓮子にかよは笑顔でうなずいた。
「ねえ、かよちゃん … 私の先生になってくださらない?」
「てっ、先生?」
「ねっ、私に家事を教えて!」
蓮子の目は真剣だった。
蓮子と家事の手ほどきをする約束を交わしたかよは、次の日、屋台に行く前に宮本家を訪れた。
* * * * * * * * * *
物干し竿に干した洗濯ものを、かよは掌で挟んでパンパンと叩いてみせた。
「こうすると、しわが伸びるですよ」
「そうなの?」
蓮子も見様見真似で同じようにしてみた。
「 … 面白い」
洗濯が終われば、次は炊事だ。
半月切りにした大根に危なっかしい手つきで包丁を入れていく蓮子。
「蓮子さん、左手は軽く丸めて抑えると、切りやすいですよ」
かよの言う通りすると、これまた面白いようにザクザク切れる。
「本当だわ!」
* * * * * * * * * *
かよの指導で、蓮子が味付けした味噌汁、それを味見したかよは大きくうなずいた。
「うん」
ホッとした蓮子の顔から安堵の笑みがこぼれた。
「よかった ~
かよちゃんのおかげで、今夜はお義母様のお小言聞かなくて済みそうだわ。
… ねえ、これからちょくちょく来て」
「はい、昼の仕事が休みの日なら」
蓮子にねだられて、かよは快く承諾した。
「あ、でも … 夜も屋台で働いてるのに、大変じゃない?」
「やるこんがある方がありがたいです。
何かして体を動かしていんと、つい考えちまって … 」
「 … 郁弥さんのこと?」
かよは蓮子の質問には答えずに慌ただしく料理する手を動かしていた。
* * * * * * * * * *
一方、村岡家では …
昼食にほとんど手をつけずにぼんやりと座っている平祐。
「お口に合いませんでした?」
花子が心配して訊ねても、答える気力もないのか …
「明日はお義父様の好きなライスカレーにしますね」
ご機嫌を取ってみたが、ニコリともせずに重たい口を開いた。
「 … 明日は必ず来るものじゃない」
平祐は郁弥の遺影を見つめながら話した。
「郁弥を失ってから、強くそう感じるようになった」
悲観的なことしか口にしなくなった今の平祐を郁弥が見たらどんな顔をするだろうか …
* * * * * * * * * *
ふたたび、宮本家。
指導役のかよがほとんどこしらえた煮物を入れた器を手に蓮子は言った。
「あんまり上手に出来過ぎると、誰かに作ってもらったって分かっちゃうかしら?」
ふたりが顔を見合わせて笑っていると、背後から厳しい声が聞こえた。
「もう分かっちゃいましたよ」
息を呑む蓮子 … 慌てて振り向くとそこに浪子が立っていた。
「おかえりなさい、お義母様。
随分お早やかったんですね … 」
「どなた?」
浪子はかよのことを不審な目で見ている。
「こちら、私の女学校時代の友人のはなさんの妹さん … 」
「手短に言ってちょうだい」
気の短い浪子には、蓮子の説明がまどろっこしかったようだ。
「かよと申します」
「お料理を習っておりましたの」
* * * * * * * * * *
それを聞いて、浪子は皮肉たっぷりに
「あなたにも学ぼうなんて気持ちがあるのね?
… てっきり料理なんて使用人がするもんだって、バカにしてるのかと思いましたよ」
「そんなことございません!
私だって … 」
ムキになって否定しようとした蓮子の言葉を浪子はさえぎった。
「言い訳は結構!」
そう言って、浪子は土間に下りてくると、菜箸で煮物を味見した。
「あら?!」
美味しかったのだろう … 浪子は頬をほころばせたと思ったら、おもむろにかよの方に振り向いた。
「かよさんとやら …
この人、大変だと思うけど、せめてこれくらいまともな料理が作れるようになるまで、せいぜい気長につき合ってやってちょうだい」
思いがけず、姑からお墨付きを得た蓮子は大喜び。
これでこそこそ隠れてかよを呼ぶ必要もなくなったのだ。
「かよちゃん、お義母様もそうおっしゃってるし、また来てね!」
かよは少し戸惑いながらも承知した。
* * * * * * * * * *
震災の時のことがきっかけになり、花子は近所の子供たちを集めては時々、物語を聞かせるようになっていた。
庭に並べた椅子に子供たちを座らせて、縁側で花子が語る今日の物語は『王子と乞食』だ。
「 … 王子はトムに言いました。
『お前は髪の毛といい、目つきといい、声から動作から、姿、形、顔つきまで私と瓜ふたつだ。
もしもふたりが裸で出て行ったら、誰ひとり見分けられる者はないだろう』 … 」
「王子とトム、そんなに似ているの?」
歩も子供たちに混ざって、花子の物語に耳を傾けていた。
「そう、そっくりなの」
家の中から出てきた英治が花子にノートを手渡した。
「花子さん、こういうのはどうかな?」
そこには、ラフな鉛筆画が描かれてあった。
「 … 単行本の装丁?」
「王子とトムだ」
その絵を見た歩の言葉を聞いて、子供たちが花子の周りに集まってきた。
花子がノートを皆に見えるように掲げると歓声が上がった。
中央に『王子と乞食』のタイトル、それを挟んで背中合わせに王子とトムが座っていた。
連載に色を添えていた、英治のあの優しい画風の絵だった。
「皆、『王子と乞食』の本が出来たら、読んでくれるかな?」
英治が尋ねると、子供たちは一斉にうなずいた。
「わあ、うれしい ~ 」
* * * * * * * * * *
花子は仕事から戻ったかよに、待ちきれなかったように英治の装丁案をみせた。
「こういう洒落た装丁なら、郁弥さんも喜んでくれるらね」
ところが、かよの表情は冴えなかった。
「 … ほんなこんしても、意味ないじゃん」
「かよ?」
喜んでくれるとばかり思っていた花子は唖然とした。
「おやすみなさい」
かよは逃げるように部屋へ引っ込んでしまった。
* * * * * * * * * *
昼間は家事や育児等に追われる花子が仕事に没頭できるのは、歩が眠りについてからの時間だった。
しかし今夜は、夕方のかよのことが気にかかって、ペンのノリが悪かった。
「君も無理するなよ」
書斎に入ってきた英治が花子の机に飲み物の入ったカップを置いた。
「ありがとう」
「 … かよさんは、『王子と乞食』の単行本を作ること反対なんだな」
花子の心の中を見透かしたかのように英治は言った。
「私もこのまま進めていいのかどうか、分からなくなったわ … 」
郁弥を失った悲しみは皆同じでも、平祐、かよとの間に出来た心情的な隔たりに花子は困惑していた。
* * * * * * * * * *
一方、かよという姑公認の指導者を得た蓮子。
彼女が教えてくれるちょっとした生活の知恵は蓮子にとって新鮮であり、家事に対する興味も湧いてきた。
「お水にお酢を少し入れるといいなんて知らなかったわ」
雑巾がけさえ楽しく思えるようになってきた。
「かよちゃん?」
「 … ごめんなさい」
やる気満々の蓮子とは裏腹に、かよは何かにつけ、ふとした時にぼんやりすることが多くなっていた。
「何かあったの?」
どうしてだろう、かよは今の気持ちを蓮子になら話せる気がした。
「お姉やんたち、『王子と乞食』の単行本を作ろうとしてるです」
* * * * * * * * * *
「お姉やんたちは、郁弥さんの夢を叶えようとして頑張ってる。
ほれでも、郁弥さんは、郁弥さんの時計はあの日からずっと止まったまんま …
前に進まんきゃ、いけんのかな?」
かよは辛そうな顔をした。
「おら、このまま止まっていてえ、郁弥さんの居た時間に … 」
蓮子は慈母のようなまなざしでかよを見つめていた。
「かよちゃん … 」
* * * * * * * * * *
その日、花子は郁弥の遺影に手を合わせ問いかけてみた。
写真の中の郁弥は自慢の時計が見えるように気取ったポーズを取って澄ました顔だ。
その時計は、かよが言った通り、あの日の時間を指したまま、遺影の前に置かれている。
「ごめんください」
そんな時、突然やって来た訪問者は出迎えた花子を驚かせた。
玄関の前に立っていたのは、嘉納伝助だったのだ。
「はなちゃん、久しぶりやね」
* * * * * * * * * *
「ここんちは、無事やったようで何よりばい」
伝助は花子たちの無事を喜んだが、どことなくぎこちない … 一番聞きたいことを聞けないでいるからだろうか?
「今日はどうなさったんですか?」
「あんたに … 頼みがあって来たとばい」
そう言うと、お付の番頭に合図して、花子の前に一通の封筒を差し出した。
「はなちゃんは、英語ん翻訳がでくるとやろ?」
「ええ」
「それを日本語に直しちゃってくれんね」
封筒に入っていたのは、英文の手紙だった。
「分かりました」
「おお、よろしく頼むばい」
花子にしてみたら容易いことだった。
しかし、ざっと目を通した花子はこの場で読み上げるのを躊躇してしまった。
花子は伝助の顔をそっと覗き見た。
「なんな?」
「いえ … では」
花子は翻訳をはじめた。
「 … 最愛の伝助様。
お慕いしております」
伝助の眉が動いた。
「アメリカに帰っても、あなたのことは、わ、忘れません」
紛れもない恋文だった。
「あ、あなたと過ごした神戸での熱い夜 … 」
* * * * * * * * * *
「分かった、もうよか!」
伝助は花子から手紙を取り上げると、気まずそうに咳ばらいをした。
「え ~ 神戸の博覧会で会うた、金髪の踊り子たい」
花子が聞いてもいないのに釈明しながら手紙を懐にしまった。
「これくらいならお安い御用なので、いつでもどうぞ」
「ははは、助かるばい」
伝助は話題を変えた。
「はなちゃんは、また本を書いて出さんとか?」
「ええ、出したいと思ってるんですけど … このご時世ですからなかなか難しくて」
「うん … 蓮子は、あんたの本を読みよる時が一番ご機嫌やったばい」
蓮子に対する恨みつらみなどまったく感じられず、伝助はただ懐かしそうに話した。
「俺は無学で字が読めん。
ばってん、あいつが読みよるのを見て分かった。
本ちゅうのは、読むもんを夢み心地にするとやろね」
伝助の言葉は、まさに花子が考える本の本質そのものだった。
「はい!」
花子はうれしくなって笑顔でうなずいた。
「ふふふふ、東京はこげな有様やき … こげん時こそ、あんたの本を待っちょる人が他にも大勢おるとやろね」
「嘉納さん … 」
花子は感動していた。
出版に携わる誰もが悲観的にしか考えていない状況の中での、伝助は物事を前向きに捉えていた。
< 伝助の言葉に力づけられた花子でした。
ごきげんよう … おや? >
その時突然、伝助が身を前に乗り出した。
「もうひとつ、訊きたいことがある」
花子をじっと見据えてそう言った。
「 … な、なんでしょう?」
< 石炭王は一体、何を訊きたいのでしょうか?
… ごきげんよう、さようなら >

かよが働きはじめた屋台に蓮子がふらりとひとりでやって来た。
「ひょっとして家出でもしてきたですか ~ まさかですよね?」
冗談半分で訊ねたかよだったが、蓮子から返ってきた言葉は …
「その、まさかなの … 」
「てっ?!」
「私、今夜は帰りたくない … 」
ただ事ではなかった。
主婦になった蓮子に、一体何があったのだろう?
* * * * * * * * * *
「ねえ、かよちゃん … 私って、そんなにしゃべるの遅い?」
蓮子から訊かれて、かよはピンときた。
「ああ、お姑さんに言われたですか?」
「私って、そんなに遅いかしら?」
< 確かに早いとは言えませんね … >
「これでも精一杯急いでやっているのよ ~ お掃除も、お炊事も、お洗濯も」
口をとがらせた蓮子をかよは宥めた。
「大丈夫、家事は慣れです。
そのうち出来るようになりますよ」
「そう?」
不安げな顔で見つめた蓮子にかよは笑顔でうなずいた。
「ねえ、かよちゃん … 私の先生になってくださらない?」
「てっ、先生?」
「ねっ、私に家事を教えて!」
蓮子の目は真剣だった。
蓮子と家事の手ほどきをする約束を交わしたかよは、次の日、屋台に行く前に宮本家を訪れた。
* * * * * * * * * *
物干し竿に干した洗濯ものを、かよは掌で挟んでパンパンと叩いてみせた。
「こうすると、しわが伸びるですよ」
「そうなの?」
蓮子も見様見真似で同じようにしてみた。
「 … 面白い」
洗濯が終われば、次は炊事だ。
半月切りにした大根に危なっかしい手つきで包丁を入れていく蓮子。
「蓮子さん、左手は軽く丸めて抑えると、切りやすいですよ」
かよの言う通りすると、これまた面白いようにザクザク切れる。
「本当だわ!」
* * * * * * * * * *
かよの指導で、蓮子が味付けした味噌汁、それを味見したかよは大きくうなずいた。
「うん」
ホッとした蓮子の顔から安堵の笑みがこぼれた。
「よかった ~
かよちゃんのおかげで、今夜はお義母様のお小言聞かなくて済みそうだわ。
… ねえ、これからちょくちょく来て」
「はい、昼の仕事が休みの日なら」
蓮子にねだられて、かよは快く承諾した。
「あ、でも … 夜も屋台で働いてるのに、大変じゃない?」
「やるこんがある方がありがたいです。
何かして体を動かしていんと、つい考えちまって … 」
「 … 郁弥さんのこと?」
かよは蓮子の質問には答えずに慌ただしく料理する手を動かしていた。
* * * * * * * * * *
一方、村岡家では …
昼食にほとんど手をつけずにぼんやりと座っている平祐。
「お口に合いませんでした?」
花子が心配して訊ねても、答える気力もないのか …
「明日はお義父様の好きなライスカレーにしますね」
ご機嫌を取ってみたが、ニコリともせずに重たい口を開いた。
「 … 明日は必ず来るものじゃない」
平祐は郁弥の遺影を見つめながら話した。
「郁弥を失ってから、強くそう感じるようになった」
悲観的なことしか口にしなくなった今の平祐を郁弥が見たらどんな顔をするだろうか …
* * * * * * * * * *
ふたたび、宮本家。
指導役のかよがほとんどこしらえた煮物を入れた器を手に蓮子は言った。
「あんまり上手に出来過ぎると、誰かに作ってもらったって分かっちゃうかしら?」
ふたりが顔を見合わせて笑っていると、背後から厳しい声が聞こえた。
「もう分かっちゃいましたよ」
息を呑む蓮子 … 慌てて振り向くとそこに浪子が立っていた。
「おかえりなさい、お義母様。
随分お早やかったんですね … 」
「どなた?」
浪子はかよのことを不審な目で見ている。
「こちら、私の女学校時代の友人のはなさんの妹さん … 」
「手短に言ってちょうだい」
気の短い浪子には、蓮子の説明がまどろっこしかったようだ。
「かよと申します」
「お料理を習っておりましたの」
* * * * * * * * * *
それを聞いて、浪子は皮肉たっぷりに
「あなたにも学ぼうなんて気持ちがあるのね?
… てっきり料理なんて使用人がするもんだって、バカにしてるのかと思いましたよ」
「そんなことございません!
私だって … 」
ムキになって否定しようとした蓮子の言葉を浪子はさえぎった。
「言い訳は結構!」
そう言って、浪子は土間に下りてくると、菜箸で煮物を味見した。
「あら?!」
美味しかったのだろう … 浪子は頬をほころばせたと思ったら、おもむろにかよの方に振り向いた。
「かよさんとやら …
この人、大変だと思うけど、せめてこれくらいまともな料理が作れるようになるまで、せいぜい気長につき合ってやってちょうだい」
思いがけず、姑からお墨付きを得た蓮子は大喜び。
これでこそこそ隠れてかよを呼ぶ必要もなくなったのだ。
「かよちゃん、お義母様もそうおっしゃってるし、また来てね!」
かよは少し戸惑いながらも承知した。
* * * * * * * * * *
震災の時のことがきっかけになり、花子は近所の子供たちを集めては時々、物語を聞かせるようになっていた。
庭に並べた椅子に子供たちを座らせて、縁側で花子が語る今日の物語は『王子と乞食』だ。
「 … 王子はトムに言いました。
『お前は髪の毛といい、目つきといい、声から動作から、姿、形、顔つきまで私と瓜ふたつだ。
もしもふたりが裸で出て行ったら、誰ひとり見分けられる者はないだろう』 … 」
「王子とトム、そんなに似ているの?」
歩も子供たちに混ざって、花子の物語に耳を傾けていた。
「そう、そっくりなの」
家の中から出てきた英治が花子にノートを手渡した。
「花子さん、こういうのはどうかな?」
そこには、ラフな鉛筆画が描かれてあった。
「 … 単行本の装丁?」
「王子とトムだ」
その絵を見た歩の言葉を聞いて、子供たちが花子の周りに集まってきた。
花子がノートを皆に見えるように掲げると歓声が上がった。
中央に『王子と乞食』のタイトル、それを挟んで背中合わせに王子とトムが座っていた。
連載に色を添えていた、英治のあの優しい画風の絵だった。
「皆、『王子と乞食』の本が出来たら、読んでくれるかな?」
英治が尋ねると、子供たちは一斉にうなずいた。
「わあ、うれしい ~ 」
* * * * * * * * * *
花子は仕事から戻ったかよに、待ちきれなかったように英治の装丁案をみせた。
「こういう洒落た装丁なら、郁弥さんも喜んでくれるらね」
ところが、かよの表情は冴えなかった。
「 … ほんなこんしても、意味ないじゃん」
「かよ?」
喜んでくれるとばかり思っていた花子は唖然とした。
「おやすみなさい」
かよは逃げるように部屋へ引っ込んでしまった。
* * * * * * * * * *
昼間は家事や育児等に追われる花子が仕事に没頭できるのは、歩が眠りについてからの時間だった。
しかし今夜は、夕方のかよのことが気にかかって、ペンのノリが悪かった。
「君も無理するなよ」
書斎に入ってきた英治が花子の机に飲み物の入ったカップを置いた。
「ありがとう」
「 … かよさんは、『王子と乞食』の単行本を作ること反対なんだな」
花子の心の中を見透かしたかのように英治は言った。
「私もこのまま進めていいのかどうか、分からなくなったわ … 」
郁弥を失った悲しみは皆同じでも、平祐、かよとの間に出来た心情的な隔たりに花子は困惑していた。
* * * * * * * * * *
一方、かよという姑公認の指導者を得た蓮子。
彼女が教えてくれるちょっとした生活の知恵は蓮子にとって新鮮であり、家事に対する興味も湧いてきた。
「お水にお酢を少し入れるといいなんて知らなかったわ」
雑巾がけさえ楽しく思えるようになってきた。
「かよちゃん?」
「 … ごめんなさい」
やる気満々の蓮子とは裏腹に、かよは何かにつけ、ふとした時にぼんやりすることが多くなっていた。
「何かあったの?」
どうしてだろう、かよは今の気持ちを蓮子になら話せる気がした。
「お姉やんたち、『王子と乞食』の単行本を作ろうとしてるです」
* * * * * * * * * *
「お姉やんたちは、郁弥さんの夢を叶えようとして頑張ってる。
ほれでも、郁弥さんは、郁弥さんの時計はあの日からずっと止まったまんま …
前に進まんきゃ、いけんのかな?」
かよは辛そうな顔をした。
「おら、このまま止まっていてえ、郁弥さんの居た時間に … 」
蓮子は慈母のようなまなざしでかよを見つめていた。
「かよちゃん … 」
* * * * * * * * * *
その日、花子は郁弥の遺影に手を合わせ問いかけてみた。
写真の中の郁弥は自慢の時計が見えるように気取ったポーズを取って澄ました顔だ。
その時計は、かよが言った通り、あの日の時間を指したまま、遺影の前に置かれている。
「ごめんください」
そんな時、突然やって来た訪問者は出迎えた花子を驚かせた。
玄関の前に立っていたのは、嘉納伝助だったのだ。
「はなちゃん、久しぶりやね」
* * * * * * * * * *
「ここんちは、無事やったようで何よりばい」
伝助は花子たちの無事を喜んだが、どことなくぎこちない … 一番聞きたいことを聞けないでいるからだろうか?
「今日はどうなさったんですか?」
「あんたに … 頼みがあって来たとばい」
そう言うと、お付の番頭に合図して、花子の前に一通の封筒を差し出した。
「はなちゃんは、英語ん翻訳がでくるとやろ?」
「ええ」
「それを日本語に直しちゃってくれんね」
封筒に入っていたのは、英文の手紙だった。
「分かりました」
「おお、よろしく頼むばい」
花子にしてみたら容易いことだった。
しかし、ざっと目を通した花子はこの場で読み上げるのを躊躇してしまった。
花子は伝助の顔をそっと覗き見た。
「なんな?」
「いえ … では」
花子は翻訳をはじめた。
「 … 最愛の伝助様。
お慕いしております」
伝助の眉が動いた。
「アメリカに帰っても、あなたのことは、わ、忘れません」
紛れもない恋文だった。
「あ、あなたと過ごした神戸での熱い夜 … 」
* * * * * * * * * *
「分かった、もうよか!」
伝助は花子から手紙を取り上げると、気まずそうに咳ばらいをした。
「え ~ 神戸の博覧会で会うた、金髪の踊り子たい」
花子が聞いてもいないのに釈明しながら手紙を懐にしまった。
「これくらいならお安い御用なので、いつでもどうぞ」
「ははは、助かるばい」
伝助は話題を変えた。
「はなちゃんは、また本を書いて出さんとか?」
「ええ、出したいと思ってるんですけど … このご時世ですからなかなか難しくて」
「うん … 蓮子は、あんたの本を読みよる時が一番ご機嫌やったばい」
蓮子に対する恨みつらみなどまったく感じられず、伝助はただ懐かしそうに話した。
「俺は無学で字が読めん。
ばってん、あいつが読みよるのを見て分かった。
本ちゅうのは、読むもんを夢み心地にするとやろね」
伝助の言葉は、まさに花子が考える本の本質そのものだった。
「はい!」
花子はうれしくなって笑顔でうなずいた。
「ふふふふ、東京はこげな有様やき … こげん時こそ、あんたの本を待っちょる人が他にも大勢おるとやろね」
「嘉納さん … 」
花子は感動していた。
出版に携わる誰もが悲観的にしか考えていない状況の中での、伝助は物事を前向きに捉えていた。
< 伝助の言葉に力づけられた花子でした。
ごきげんよう … おや? >
その時突然、伝助が身を前に乗り出した。
「もうひとつ、訊きたいことがある」
花子をじっと見据えてそう言った。
「 … な、なんでしょう?」
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